東京に残る3体の「騎馬像」 勇壮な姿に見る近代日本の歴史とは

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東京に残る3体の「騎馬像」 勇壮な姿に見る近代日本の歴史とは

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広岡祐

文筆家、社会科教師

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東京都内には、戦前の騎馬像が残っています。その背景と魅力について、文筆家の広岡祐さんが解説します。

都内に残る戦前の騎馬像

 明治から昭和初期にかけて、忠君愛国の象徴として、東京の各所に多くの軍人像が置かれました。中でも旧万世橋駅頭におかれた日露戦争の英雄・広瀬中佐像は、帝都の名物として大変な人気をあつめ、さまざまな写真や絵はがきにその姿を残しています。

 著名な銅像の多くは太平洋戦争中の金属類回収令で失われてしまいましたが、供出をまぬがれた銅像も、1946(昭和21)年、連合国軍総司令部の政教分離令に基づいて東京都が設置した、『忠魂碑銅像等撤去審査委員会』の審査により撤去されることになりました。

 軍国主義色が濃い作品などは実際には審査を待たず、関係者によって自主的に取り壊された像も多かったようです。広瀬中佐像のほか、1932(昭和7)年の第1次上海事変のときに鉄条網破壊で戦死した肉弾三勇士像など、東京名所でもあった数々の軍人像が戦後のこの時期に消えています。

 今回は現在も見ることのできる戦前の銅像の中から、3体の騎馬像を紹介します。騎馬像といえば皇居外苑(がいえん)の楠木正成像が有名ですが、こちらはすべて近代の人物。皇族から軍人になった最初の3人の銅像が残されているのです。

 彼らは幕末から明治にかけて活躍した人々で、3人とも国葬をもって送られました。都内の緑の公園にたたずむ銅像から、近代日本の歴史をたどってみましょう。

官軍の司令官として -有栖川宮熾仁親王-

 港区南麻布の有栖川宮記念公園。ここはかつて皇族・有栖川宮の邸宅があった御用地でした。閑静な公園の広場に建つ騎馬像が、有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王像です。

有栖川宮熾仁像。官軍のシンボルとなった人物だった(画像:広岡祐)



宮さん、宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じゃいな
あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか(トンヤレ節)

 1868(明治元)年、鳥羽伏見の戦いからスタートした戊辰(ぼしん)戦争で、官軍(新政府軍)の兵隊たちによってうたわれた行進歌です。この『宮さん』が、明治新政府の東征大総督として指揮をとった熾仁親王でした。

 維新後は明治政府の総裁職をつとめ、また初代の陸軍参謀総長に任ぜられました。この像は三宅坂(みやけざか)の陸軍参謀本部(現・憲政記念館。千代田区永田町)に置かれていたもの。戦後も長く三宅坂に残されていましたが、1962(昭和37)年に首都高の拡張工事にあわせて移転しました。東京オリンピックの2年前のことでした。

 有栖川宮熾仁親王は、14代将軍・徳川家茂と結婚した皇女和宮の元婚約者として、歴史ファンには名高い人物です。鳥羽伏見の戦いの後、有栖川宮に15代将軍慶喜の助命嘆願をしたのが、つぎに紹介する輪王寺宮(北白川宮)でした。

波乱の生涯 -北白川宮能久親王-

 千代田区の北の丸公園。美しい赤レンガの西洋館は、この2月まで国立近代文学館工芸館として使用されていた建築で、もとは日本陸軍の近衛師団司令部庁舎でした。この建物の脇に建つ銅像が、北白川宮能久(きたしらかわのみや よしひさ)親王像です。

北白川宮能久親王像。製作は近衛騎兵から彫刻家に転じた新海竹太郎(画像:広岡祐)



 北白川宮は上野寛永寺(台東区上野桜木)の貫主として、明治維新前は輪王寺宮と呼ばれていました。

 上野の寛永寺は芝増上寺(港区芝公園)とならぶ徳川家の菩提(ぼだい)寺で、この大寺院の住職には京都から皇子や猶子(ゆうし。天皇の名目上の養子)が招かれることになっていたのです。彼は明治天皇の祖父・仁孝(にんこう)天皇の猶子。幕末に彰義隊ともに幕府側に立った唯一の皇族でした。戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の盟主となった人物でもあります。

 新政府に帰順後は謹慎し、有栖川宮邸で生活していた時期もありました。ヨーロッパ留学ののちに陸軍に入り、近衛第一師団長となります。ドイツ遊学中にドイツ貴族の未亡人と婚約するなど、華やかな話題を振りまいたこともあったようです。

 能久親王は日清戦争終結後の1895(明治28)年、日本に割譲された台湾の平定作戦に指揮官として出陣し、戦地でマラリアにかかり戦病死してしまいます。戦地で命を落とした最初の皇族として、この銅像は長く師団の象徴となりました。

陸軍大将となった兄宮 -小松宮彰仁親王-

 恩賜上野公園のほぼ中心部、上野動物園の正門の近い木立の中にかこまれて建っているのが、小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王像。すばらしく立派な台座の上に載っています。戊辰戦争では奥羽征討総督となった人物で、維新後は佐賀の乱、西南戦争でも指揮をとり、のちに陸軍大将、元帥に任ぜられました。

小松宮彰仁親王像。1912(明治45)年、自身が創設期に総裁を務めた日本赤十字社により建立(画像:広岡祐)



 実はこの人物、北白川宮能久親王の実兄なのです。つまり明治維新のときに、兄弟が官軍・賊軍側にわかれて対立したのです。江戸幕府は有事のさい、天皇の敵、「朝敵」になるのを避けるために寛永寺に皇族を招いていたのですが、それが明治維新の混乱で、ついに悲劇を呼んだのでした。

 日本陸軍の要職を歴任した小松宮の銅像が、弟宮と縁の深い上野の森に置かれているのはなかなか興味深いです。彰仁親王の死後、子のいなかった小松宮家は断絶してしまいますが、のちに小松宮家の祭祀(さいし)を受け継いだのが、北白川宮能久親王の四男、輝久王だったといいます。

 3体の騎馬像のエピソード、いかがだったでしょう。コロナ禍のなか、都内の公園や緑地で運動したり、体を動かしたりした人も多いでしょう。公園の片隅に古い銅像を発見することがあったら、ぜひその人物のルーツをたどってください。

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