新型コロナの「SNSデマ」を想起? 江戸から変わらぬ人間の行動様式を描いた『武助馬』とは【連載】東京すたこら落語マップ(11)

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新型コロナの「SNSデマ」を想起? 江戸から変わらぬ人間の行動様式を描いた『武助馬』とは【連載】東京すたこら落語マップ(11)

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櫻庭由紀子(落語・伝統話芸ライター)

落語と聞くと、なんとなく敷居が高いイメージがありませんか? いやいや、そんなことありません。落語は笑えて、泣けて、感動できる庶民の文化。落語・伝統話芸ライターの櫻庭由紀子さんが江戸にまつわる噺を毎回やさしく解説します。

疫病のデマに巻き込まれた悲劇の落語家

 有事の際に必ずといっても良いほど現れるのが「デマ」です。古くは戦争や大火事、最近は震災で、そして令和の疫病でもさまざまなデマが出回りました。

 今回は、江戸時代元禄(げんろく)年間に流行した疫病「ソロリコロリ」にまつわるデマに巻き込まれ、島流しにあったという悲劇の落語家・鹿野武左衛門(しかの ぶざえもん)の創作落語「武助馬」の紹介です。

五粽亭広貞画「組討」。熊谷が沖へと向かう敦盛を呼び戻すという場面(画像:櫻庭由紀子)



※ ※ ※

 店を辞めた武助が、しばらくぶりに旦那のもとへやってくる。様子を聞いてみると、芝居好きだった武助は上方の嵐璃寛の弟子になったという。

「『蜜柑』という名をいただきましたが、3年たっても役がつきません」

という武助に、「桃栗三年柿八年というだろう、そのうち役がつくだろう」と慰めると、「春に役がつきました」という。どんな役が付いたのかと聞くと、忠臣蔵五段目のイノシシの役だという。その次は、菅原伝授手習鑑の配所の牛。「せりふがつかないので、江戸に戻ってきました」。

 旦那が誰の弟子になったのかと聞いてみると、「芝翫(しかん)の弟子になりまして、『一貫五百』と言う名をもらいました。この度やっと新富座へ出ることになりましたので、ぜひひとつごひいきに」という。

 何の役なのか聞いてみると「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)で、“組み討ち”のところに手前」という。ついに人間の役なのかと聞いてみると、

「へえ、馬の後ろ足になって大将を乗っけて一生懸命歩いています」

と、今度は馬だ。

 面倒見の良い旦那は、近所の衆を集めてにわかのひいき連を組んで見に行くことに。旦那は楽屋にも差し入れをするなど気を回してくれるので、武助も気分が良い。

 酒に酔って寝ている馬の足13年のベテランの熊右衛門を起こし、馬になろうと準備をしていると、熊右衛門が臭いのを一発。後ろの武助は閉口する。

 いよいよ熊谷直実の芝翫を乗せて花道登場。

 とはいえ、武助は馬の後ろ足なので声がかかるはずもない。旦那に褒めろと脅された近所の衆は「いいぞ、馬の足ー!」「よっ馬の足!後足の方だ」「武助馬、日本一!」とやけくそに声を張り上げ褒める。

 喜んだ武助は、芝翫を乗せたままぴょんぴょん。ついには「ヒヒヒーーーン!」といなないた。客席は大笑い。怒った芝翫は、幕後に武助を呼んだ。

 武助「飛んだり跳ねたり、さぞおやりにくかったことでしょう」

 芝翫「そうじゃねえ。お前、鳴きやがったな。なんだって後ろ足がいななくんだ」

 武助「へえ、でも熊右衛門さんは前足でオナラをしました」

江戸・大阪・京都で同時期に始まった落語の祖

 鹿野武左衛門は、元禄年間にかけて「座敷仕方咄」を得意にした江戸落語の祖といわれる人物です。同じ頃、京都では露の五郎兵衛が、浪速では米沢彦八が辻噺(つじばなし)を始めており、それぞれ「上方落語の祖」「大阪落語の祖」と言われています。

 鹿野武左衛門は京都や大阪が辻噺であることに対して、小屋掛で興行を打ったとされ、この違いが江戸落語と上方落語の特徴として現代まで継承されています。

 江戸で落語を誕生させた武左衛門ですが、元禄6(1693)年、江戸市中で流行した疫病「ソロリコロリ」にまつわるにデマに巻き込まれ、八丈島へと島流しにされてしまいます。

●中橋広小路(中央区八重洲付近)
 鹿野武左衛門が小屋をかけて六文の木戸銭で興行を始めた場所。中橋は日本橋と京橋との中間にあった掘割に架かっていた橋で、江戸歌舞伎の始祖・中村勘三郎(1597?~1658)が江戸で初めて芝居小屋を掛けた場所でもあります。

 安永3(1774)年にはすでに埋め立てられ、中橋広小路という町になりました。盛り場として栄え、諸国の芸人がここを稼ぎ場として集まりました。現在の八重洲通りと中央通りが交差するあたりです。

●新富座
 新富座は、守田座が新富町に移転後に改名した座名。移転は明治5(1872)年のため、武左衛門が発表した元禄の時代と合わないことになります。

銀座4丁目の歌舞伎座 昭和6年に明治座、新富座、松竹と合併し、現在は松竹が歌舞伎興行を行っている(画像:櫻庭由紀子)



 現在の噺は、原話「堺町馬の顔見世(みせ)」を明治初期に改作したものかもしれません。

日本橋人形町と伊豆大島も舞台に

●堺町(日本橋人形町3丁目)
「武助馬」の元の噺である「堺町馬の顔見世」によると、「市村芝居」に出るとされています。

現在の中央区日本橋人形町3丁目の様子(画像:(C)Google)

 市村座は当時、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町3丁目)であり、堺町ではないはずなのですが、中村座と市村座は当時隣り合っており、一帯を堺町としていたのかもしれません。堺町・葺屋町は芝居町を形成しており、その名残は現在にも残されています。

●伊豆大島 東京都大島町
 伊豆諸島最大の島。武左衛門が流罪となった八丈島は、伊豆諸島のひとつ。

 武左衛門が赦免になった8年後の元禄16年(1703年)には、赤穂浪士の遺児ら4人(間瀬定八、吉田兼直、中村忠三郎、村松政右衛門)が流されています。神亀元年(724年)には伊豆国が安房国、常陸国、佐渡国などとともに遠流の地に定められたといい、寛政8年(1796年)に正式に流刑地から除外されています。

「あんこ椿は恋の花」で知られるかすりの着物に前掛け、手ぬぐいをかぶった「あんこ姿」は島のシンボル。現在では多くの観光客が訪れる自然豊かな東京の島です。

デマを流したのは誰か

 元禄6年、江戸の市中で「ソロリコロリ」という奇病が流行しました。人々が不安になる中、

「梅干しと南天の実を煎じて服用すべしと、人の言葉を操る馬がお告げした」

というデマが広まります。このため梅と南天の値が高騰し、江戸は大騒ぎに。

 今回のコロナ禍でも「お湯を飲めば予防できる」や「トイレットペーパーが手に入らなくなる」などのデマや、マスクの異常な高騰、政府による2枚の小さな布マスク支給などに人々は翻弄(ほんろう)されました。しかし、江戸の頃からどうやら人間の行動というものは変わらないようです。

『鹿の巻筆』より。酒宴で落とし噺を演じる鹿野武左衛門(画像:櫻庭由紀子)



 この「南天と梅干し」のデマを流したのが、浪人と神田の八百屋。そして「馬が告げた」というのは、鹿野武左衛門の小咄(こばなし)「堺町馬の顔見世」の1シーンからヒントを得たとのこと。この小咄こそが、現在の「武助馬」。後ろ足の武助が調子に乗って「ヒヒヒーーーン」といなないた、あのシーンです。

 誤解を生む小咄を書いたとして、鹿野武左衛門も詮議(せんぎ。罪人の取り調べ)にかけられることに。

 するとデマを流したふたりから、鹿野武左衛門が「梅干しまじない」の薬方書の執筆を請け負ったことが判明。結局、浪人は斬罪、鹿野武左衛門と八百屋は流罪。版元は江戸追放のうえ、版木は焼却となってしまいます。

 後ろ足がいなないた部分を勝手に利用された武左衛門は確かにとばっちりですが、そそのかされたとはいえ、怪しいまじない書を執筆したのですから、罪に問われるのは仕方がないのかもしれません。

 武左衛門は元禄12(1699)年に江戸に戻りますが、長年の疲労か病気のため51歳で死去したといわれています。

 かくして江戸の落語はここでいったんなりを潜め、復活するには烏亭焉馬が登場する約100年後を待つこととなります。

 なお、鹿野武左衛門は八丈島に流罪となり、小咄集やまじない書の版木が焼かれたことについては、実際にあったかどうかを疑問視する説もあります。

●参考文献
・関根黙庵「江戸之落語」
・柳亭燕路「落語家の歴史」
・山本進「落語の歴史」

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