仕方なく入居したシェアハウス 東京で「居場所」を求めさまよう女性の行く末は
安心できる場所を手に入れたい 家族や恋人といっしょにいても、会社で仕事をしていても、ふと「自分の居場所がない」と感じてしまう……そんな人もいるでしょう。大勢の人がいるのにそれぞれ価値観が違い、知り合うことも交わることもほとんどない東京でなら、なおさらかもしれません。 一体、自分の居場所はどこにあるのか。そもそも居場所とはどういうものなのでしょうか。 辞書によると「人がいるところ」「その人が心を休めて、活躍できる環境」とあります。つまり、そこにいることで安心でき、自分が活躍できると感じる場なら、それこそが居場所となるはずです。 広い東京で、自分の居場所を見つけるにはどうすればいいのか(画像:写真AC) 最良の居場所には、たくさんのプラスの要素が漂っています。人によっては、まるで魔法に掛かったように、普段の自分とは違う心持ちになれることもあるでしょう。 しかし、たとえ同じ場所にいてもそうは感じない人もいて、「ここではないどこか」「もっと素敵な場所」を求めてずっと居場所を探し続けている人もいます。 では、どうすれば人は「ここが自分の居場所」と感じられるのでしょうか。 その答えを示唆する小説があります。『足りないくらし』(徳間文庫、深沢潮)。これは、あるシェアハウスに住む訳あり女性たちを描く物語です。 理想の自分を追い求めるあまり理想の自分を追い求めるあまり いつかこんな自分になりたい! と夢を持つのは素敵なこと。しかしその理想と現実とのギャップがあり過ぎると、今の自分を「仮の姿」だと思い込み、現在いる場所に無頓着になってしまう恐れもはらみます。 「仮の姿」と考えることで、今の冴えない自分にフタをするわけです。しかしそれでは居場所は見つかりません。今ではなく、仮定の未来に生きているのですから。 今の自分は「仮の姿」だと信じて、空想の未来にばかり目を向ける――誰でも陥りがちな考えだ(画像:写真AC)『足りないくらし』に登場する古畑樹(ふるはた いつき)はそんな、目の前の現実ではなく空想の未来ばかりを見ている女性でした。 同書は、井の頭線・明大前駅(世田谷区松原)から徒歩18分の場所にあるシェアハウス「ティラミスハウス」が舞台。貧困、生活保護、DVなど、さまざまな事情を抱える女性たちが章ごとに主人公となり、ストーリーが進んでいきます。 樹は、最初の章の主人公。留学資金を使い込み、親に内緒で帰国した樹。お金のない彼女は仕方なく“仮住まい”としてティラミスハウスへの入居を決めます。自分の居場所は違う場所にあると信じたまま住人のひとりになったのです。 そのためハウス内での態度もぞんざいなもの。同じ住人の小寺風香から「朝夕の食事代を出し合って一緒に食べましょう」と誘われても、「仕事」を理由に夕飯を断るのです。 しかし、次に行くはずだった場所は本来の居場所ではなかったことが分かり、彼女は否応にも現実に引き戻されます。そうして初めてティラミスハウスの存在に目を向けたのでしょう。だんだんと風香との距離は近くなり、やがて夕食も一緒に食べるようになるのです。 現状を受け入れたことで彼女はようやく、自分の居場所を見つけたのかもしれません。 居場所と聞いて思い浮かべるもの居場所と聞いて思い浮かべるもの 居場所というと、どのような場所を思い浮かべるでしょうか。居心地がよくて、あたたかくて、人によってはきれいな景色だったり、おしゃれな家や部屋だったりを思い浮かべるかもしれません。わざわざ劣悪な環境を「自分の居場所」と想像する人は、そう多くはないでしょう。 しかし物語の舞台であるティラミスハウスは、細い路地のどん詰まりにある木造2階建ての建物で、入り口は磨りガラスがはめ込まれた引き戸という、とても古い造り。今はやりのおしゃれなシェアハウスではなく、どちらかといえば「○○荘」という名が似合いそうな場所です。 中に入ると漂うのはすえたカビの臭いと体臭。畳敷きのドミトリーは天井が低く、窓側に2段ベッドが置かれているせいで昼間でも薄暗い部屋です。しかも押し入れは3段ベッドに改造されていて、そこに大人が寝るというのですからドラえもんもびっくりな仕様。 共有で使うスペースも、なかなかのものです。 ※ ※ ※ ちゃぶ台の上には食べかけの菓子パンの袋や、ドライヤーが置きっぱなしになっている。電源をとっている延長コードの差込みはタコ足状になっていて、さまざまな電気器具のプラグがささっていた。床には物が散乱し、鴨居には洗濯したショーツがハンガーで干されている。(本文引用) ※ ※ ※ プライベート空間がほぼないうえに、衛生的とはいえない雑然とした環境。しかしこのような状態も、どうやら住人たちには大切な居場所のよう。 美しいばかりが居場所ではない美しいばかりが居場所ではない 一見、小説の中だからこその描写にも思えますが、考えてみれば同じようなことは現実にもあります。 たとえば、コタツのまわりにミカンやリモコン、スマホ、お茶、お菓子、その他必要なものを全部置いて、ゴミ箱はいつも山盛りの状態……そんな部屋。当の本人からするとたいそう過ごしやすいのですが、他人の目にはそうは映らない。 散らかっていようが、美しくなかろうが、自分にとって居心地の良い場所こそが居場所(画像:写真AC) しかし居場所って、結局のところそういうものなのかもしれません。 たとえきれいな部屋でなくても、美しい景色がなくても、もっと言うと他人から見たらちょっと残念な場所であったとしても、自分にとって心地良ければ居場所。本人がそこで安心して過ごせれば、何も問題ないのです。 ということは、そこが居場所かどうかを決定づけるのは、その場所がどこなのかではなく自分自身の心持ちであるとも言えます。 自分が「こここそ居場所」と感じたら、どこであろうと居場所になり得るのですから。 いびつな人間関係が生むひずみいびつな人間関係が生むひずみ また一方で、残念ながら居場所は永遠ではありません。 その場所自体は存在していても、自分にとっての「居場所」としての効力が褪せてしまうこともあります。なかでも人間関係によって居場所が危機に瀕(ひん)するときの多くは「マウンティング」が関係している……。そんな示唆も本書では描かれています。 病気などがあるために働けず、生活保護を受けることになった下山さくら。彼女もまた期せずティラミスハウスに入居した住人のひとりです。 彼女は中学時代、実家が一時的に生活保護を受けていたことを理由にいじめられた経験があります。だからこそ病気や生活保護のことは、誰にも知られたくありませんでした。そこでハウス内では住人とできるだけ接点を持たないように振る舞っていたのです。 ※ ※ ※ おせっかいな風香が話しかけてくるが、無愛想を貫いた。すると、かえって気を使われたりするので、なんとなく心地よい。これまで人に見下されてばかりいたので、びくびくされると自分が重要な人物にでもなったような気がする。ティラミスハウスでは生まれて初めて人より「優位」に立っているのではないだろうか。(本文引用) ※ ※ ※ このくだりからも分かるように、さくらの心理は少々いびつで、言うなれば上下関係の「枠組み(箱)」にとらわれていました。 いじめを受けたことで、「生活保護は白い目で見られる」という価値観の箱に自分を押し込めて、自分自身を苦しめていたのです。その箱は彼女にとってマウンティング下層ゆえに入らざるを得ないもので、人に見下される箱だったのです。 あしき価値観にとらわれた結果あしき価値観にとらわれた結果 その箱を隠すために、彼女は虚構を演じます。 そしてそれは、彼女にとって心地いいものでした。 必要以上に踏み込んでこられない関係性は、同時にマウンティングの上位に君臨した気分にもなれ、初めてティラミスハウスで自分の居場所を得たように感じるのです。 しかしそれも束の間、彼女が生活保護を受けていることは周囲にバレてしまい……。 どんな場所であれ、周囲の人といかに関係を築くかは避けて通れない問題(画像:写真AC) その事実を知った住人たちの間に「私は頑張っているのに、どうしてこの人は……」という気持ちが芽生え、さくらがようやく見つけ出したはずの居場所は、居場所ではなくなってしまうのです。 もしもさくらが、最初から「生活保護を白い目で見るほうがおかしい」という価値観に自分の身を置けていたら。 彼女はもっと生きやすくなっていたのではないか、居場所の在り方も変わっていたのではないか、と思えてなりません。 居場所が見つかり、その場所を大切にしたいなら、無為なマウンティングを引き起こすいびつな価値観は持ち込まないほうが良さそうです。 大切さに気づくという大切なこと大切さに気づくという大切なこと ティラミスハウスに住む住人は、みんなお金に困り、訳ありでギリギリの精神状態の人ばかり。しかし彼女たちにとってティラミスハウスは、どんなにおんぼろでも「居場所」になっていました。 しかし私たちはもしかしたら、さくらのように無意識にマイナスの枠を作ってしまい、たとえ居場所を手に入れていたとしても、その大切さになかなか気づけない場合もあるかもしれません。 居場所とは何か、それを示唆してくれる小説『足りないくらし』(画像:徳間文庫) 居場所は人の気持ちによって、居場所であり続けることも、そうでなくなることもあります。 ただ同時に、しんどいことがあっても人は居場所があると強くなれます。 その居場所とは単なる場所ではなくて、人のまなざしだったり、安心感だったりもするのでしょう。身寄りのない大都会・東京でいかにして自分の居場所を手に入れるか。そのための自分の気持ちとの向き合い方が、本書には描かれているのです。
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