もう神頼みしかない? 新型コロナ禍で存在感増す目黒の「大黒さま」とは【連載】拝啓、坂の上から(2)

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もう神頼みしかない? 新型コロナ禍で存在感増す目黒の「大黒さま」とは【連載】拝啓、坂の上から(2)

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立花加久

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フリーライターで坂道研究家の立花加久さんが、東京散歩にぴったりな坂の由来を教えてくれる連載「拝啓、坂の上から」。今回は目黒区内にある「行人坂」を巡ります。

困ったときの大黒さま参り?

 このところ、新型コロナウイルスが世間を騒がしています。そんな大変な時期に散歩するのは考えものですが、とはいえ家に閉じこもってばかりだと、退屈するでしょう。

 そんなとき、日本人は昔から「困った時の神頼み」で不安を払い、心の安寧を得てきました。そんな今だからこそオススメするのが大黒天、通称「大黒さま」参りです。

ビルの谷あいにある目黒の「行人坂」。右わきに見えるのは大黒さまを祭る「大円寺」(画像:立花加久)



 大黒さまは七福神(大黒天・恵比須〈えびす〉・毘沙門天〈びしゃもんてん〉・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋〈ほてい〉)の中でもリーダー格の神様です。

 古代インドでは仏教が成立する前、多神教のバラモン教が信仰されていました。現在のインド人の多くが信仰するヒンズー教はこのバラモン教から発展したとされています。大黒さまはその中の神様の中にいて、インド出身だったことがわかります。ちなみに他の七福神も「恵比須さま」以外は、すべてインドや中国出身です。

中国では軍神としても祭られていた

 バラモン教の神様は「創造」「維持」「破壊」の三つの担当に分かれ、大黒さまはその中でも「破壊」担当である「シヴァ」の分身「マハーカーラ」と呼ばれ、信仰されていました。マハーは「大いなる」、カーラは「黒や暗黒世界」を意味します。日本に伝わる前の中国では軍神としても祭られていました。

大円寺本堂脇の七福神石像。左から寿老人・福禄寿・毘沙門天・恵比須・大黒天・弁財天・布袋(画像:立花加久)

 そのほかにも大黒さまの意外なプロフィルをご紹介すると、インド出身だけにヨガの神様や農業や財宝、食糧の神様でもあります。さらには神話「因幡の白兎(うさぎ)」で知られる出雲大社の「大国主命(オオクニヌシノミコト)」の神徳が習合され、縁結びという女性受けするスキルもあります。

 このように大黒さまは極めて剛腕なので、今はやりの新型コロナウイルスを払っていただきたいと切に思います。

破壊から「福」へ転換

 さて、そんな大黒さまが日本に伝わったのは平安時代のこと。

 天台宗の開祖で、日本仏教の母山とも称される比叡山に延暦寺(えんりゃくじ)を建てた最澄が伝えたとされています。大黒さまは比叡山をはじめ天台宗の寺院の守護神として祭られ、その後、民衆の間に広がっていきました。

 日本で本格的に広まったのは戦国時代から。戦乱が続く中、不安に駆られた京都の民たちが「福の神」とあがめて定着。七福神信仰はその後、室町時代から江戸時代へと日本人にもっとも身近な神様として広がっていきました。江戸時代に入ると現在おなじみの七福神の「コスプレ」も決まり、江戸の町中に巡礼スポット(神社仏閣)ができたのです。

江戸当時のたたずまいを今に伝え、大黒さまを祭る「大円寺」の境内(画像:立花加久)



 そんな中でも江戸最古ともいえる大黒さまを祭るのが目黒の「大円寺」(目黒区下目黒)です。

立地の理由に天台宗僧侶の陰あり

 目黒駅から目黒川に向かう「ホテル雅叙園東京」寄りにある「行人坂(ぎょうにんざか)」の途中にあるこの古刹(こさつ)が建てられたのは江戸のはじめです。

 徳川家康は、山岳修行の盛んな山形県の「湯殿山(ゆどのさん)」から法力を持つ高僧の「大海法師」を招き、坂の整地と治安整備とともに大円寺を建てました。後に比叡山から「三面大黒天像」を招き、祭ったのがはじまりです。

「三面」とは七福神の中でも「神3」的な、正面に「大黒天」左右に「毘沙門天」「弁財天」の顔を持った三位一体神です。ちなみに豊臣秀吉の出世をサポートした守り神でもありました。

「大円寺」が行者の集う修行道場だったことから「行人坂」と名付けられたことを示す坂下の碑文(画像:立花加久)

 それにしても、なぜこのような急な坂の途中にわざわざ建てたのでしょうか。その答えは、当時徳川家康のブレーンとして呪術や占いで幕政を陰で支え、さまざまな政(まつりごと)に影響を及ぼしていたとされる天台宗僧侶「天海」の存在にあります。

 天海は風水的な見立てから、この場所がちょうど江戸城から見て、悪霊や悪気が入り込む「裏鬼門」とされた未申(ひつじさる)の方角(南西)にあたるとし、それをよけるために建立しました。

 同じく悪い方角とされるその反対の「表鬼門」、丑寅(うしとら)の方角(北東)には、上野「寛永寺」や「神田明神」や「日枝神社」が置かれています。大黒さまは、いわば江戸を裏で守ったというわけです。

 改めてこの行人坂を上り下りしてみると、「裏鬼門」というだけあってかなりの急斜面。高低差は28mもあります。行者の人たちが整備した当時は、人を寄せ付けないかなりの危険な難所だったと想像できます。

 坂は人の手で一から整備した坂と、細道ながら自然道として元々あった坂道を整備したものに分けられますが、特に前者のような急坂は、当時の苦労をしのぶことができます。

 またここまで急な傾斜ですと、下りるときに味わえる「異世界移動感」や目まいのような感覚も楽しめます。行人坂は、目黒の中でも名坂といってもいいでしょう。

重要文化財も数多く安置

 そんな坂の地に祭られている頼もしい大黒さまに会いに、目黒に早速行ってみました。坂を下りていくと突然高層ビルの間に立派な山門が見えてきます。山門をくぐり境内に入ると、さっきまでの騒がしさが消え、急に厳かな雰囲気に包まれます。

「行人坂」途中にある「大円寺」の立派な門構え(画像:立花加久)



 正面に進むと、本堂両脇の「大黒天」ののぼり旗が目に入ります。そして本堂に近づくとすぐ両脇には、大黒さまを中心に配置された七福神の躍動感ある像や、金箔(きんぱく)を貼って病よけをする「薬師如来像」、品川沖で引き揚げられたという悩みをとろけさせる「とろけ地蔵」も安置されています。

 そのほかにも、井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられた「八百屋お七」にまつわる「お七地蔵」、さらに「清涼寺式釈迦(しゃか)如来立像」といった国や都指定の重要文化財も数多く安置されています。さすが徳川家康の肝いりで建てられた寺院だけあって盛り沢山です。

仏像も石碑もインスタ映え?

 境内はそれほど広くありませんが、この寺院の参拝者に若い女性が目立ちます。コンパクトかつ清涼に配置されている仏像や石碑、お地蔵さまが「インスタ映え」するのでしょうか。

江戸で最初の七福神巡りがはじまった目黒(画像:立花加久)

 私は改めて新型コロナウイルス根絶を願い、大黒さま専用のマントラ(お祈りの言葉)である「おん まかきゃらや そわか~」と唱え、お祈りをささげたのでした。

 七福神は都内23区の神社仏閣に祭られており、まさに「七福神だらけの街」です。興味のある人は近くの七福神を訪ねて、ご自身の「推し神」を見つけたり、七か所を巡礼したりしてください。夢枕に立って、幸運を引き寄せるヒントを教えてくれるかもしれませんよ。

 ただ、小池都知事が3月25日(水)、今週末の不要不急の外出を自粛するよう要請しました。そのため、状況が落ち着いてから、マスクを付けて人混みを避け、ひっそりとお参りすることをオススメします。

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