江戸時代から残っている地名も
常に変化が著しい東京の街を歩いていると、ふと妙なところに出くわすことがあります。わざわざ気にする必要もないのに、なんだか気になるスポットーー今回は新宿区の神楽坂です。
味のある東京に住んでみたい人にとって、神楽坂周辺は打ってつけのエリアです。
特に「神楽坂○丁目」という地名周辺の旧牛込区エリアは、新宿区が誕生し、住居表示を実施する際に町名の変更を拒んだため、地名が江戸時代からそのままです。もしくは少しだけ変えてそのまま、というエリアがたくさん残っているのです。
具体的には市谷船河原町(いちがやふながわらまち)、市谷砂土原町(いちがやさどはらちょう)、筑土八幡町(つくどはちまんちょう)、細工町など、時代劇さながら。なお「神楽坂○丁目」という地名は、住居表示の際に付けられた比較的新しい地名です。
中古でも一億円超えの物件はざら
ただ、このエリアに家やマンションを買って暮らそうとすると、ハードルは決して低くありません。古くからの住宅も多いため、価格は「さすが新宿区」といった感じです。
さほど広くない中古の一戸建てでも1億円超えはざらで、この原稿を書くにあたって格安物件はないものかと探してみましたが、やはりありませんでした。築40年で資産価値があまりなさそうな一軒家で、かつ再建築不可物件でも5000万円近くします。
ちなみにハザードマップを見ると、神楽坂周辺は武蔵野台地の上に位置するため、地盤は頑丈ですが、災害時には火災の危険などがあります。
火災の危険が高いのは、区画整理があまり行われておらず狭小な道が連続しているためです。
神楽坂と早稲田通り
この辺りは江戸時代から道が変化していないエリアが多く、狭小な道にも価値があります。つまり歴史好きの人が住めば、江戸時代の地図を眺めつつ、「ここには、このような人が住んでいたんだな」と思いを巡らせることができるのです。
そんな神楽坂で見逃せないのが、神楽坂の駅前から早稲田通りを高田馬場方面へ下がっていくとぶつかる牛込天神町交差点です。
と、ここでひとつ雑談を。
このエリアに詳しくない人に「神楽坂の駅を出たら、早稲田通りを右に~」など説明すると、たいてい駅を出てから「早稲田通りってどこ?」となります。
神楽坂駅周辺に案内表示板はあるのですが、高田馬場駅前から早稲田を通って走っている早稲田通りと、神楽坂駅を出たところにあるちょっと狭い通りが同じ早稲田通りということが、容易に想像できないようです。しかし、ここは確かに早稲田通りなのです。
とりわけ牛込中央通りと交差するあたりから先は歩道も狭いので、ここが早稲田通りなのかと不安になるのではないでしょうか。
文豪の作品にも登場
話を戻して、神楽坂の駅からそのまま高田馬場方面へ歩いて行くと、突然、右に急カーブを描く下り坂が現れ、その先から片側二車線の広い道路に変貌するエリアに遭遇します。前述の牛込天神町交差点です。
丁字路(T字路)でもない特殊なクランクのようなカーブを描く、この道。いったいなぜこのような不思議な形状になっているのでしょうか。
いくつかの古地図を見てみると、どうも江戸時代から同様の形になっている様子。さらに調べると、この不思議な形状に興味を持つのは筆者(業平橋渉。都内探検家)だけでないことがわかりました。かの文豪、夏目漱石も同じだったのです。
1912(明治45)年に刊行された夏目漱石の『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』には、このような一節があります。
「松本の家は矢来なので、敬太郎はこの間の晩狐に摘まれたと同じ思いをした交番下の景色を想像しつつ、其所へ来ると、坂下と坂上が両方共二股に割れて、勾配の付いた真中だけがいびつに膨れているのを発見した」
やはり漱石も、この不思議な道が気になっていたようです。
あちこちに著名人の「旧居跡」などが
『彼岸過迄』では、高等遊民を自称する主人公の叔父が、坂を登った先の矢来町に住んでいる設定になっています。
矢来町は大手出版社の新潮社があることで知られていますが、かいわいはかつて、文士が多く暮らす土地でした。住宅地の間には、あちこちに「旧居跡」などと書かれた案内板が建っています。
隣接する横寺町には小説家・尾崎紅葉の旧居跡、評論家・島村抱月の終焉(しゅうえん)の地などもあります。
ちなみに古くからの住宅地のため、歴史に残る悲惨な事件の現場もありますが、そちらは特に案内されていません。
江戸時代から道が変わっていない、このかいわい。そのため、古い地図を手にして歩くとその変化がよくわかります。
21世紀になる頃まではあちこちにお屋敷が残っていましたが、現在は次々とマンションに変わってしまっています。コロナ禍が落ち着いたら、「3密」を避けて足を運んでみてはいかがでしょうか。