「東京湾」という名称、正式に決まったのはなんと昭和40年代だった

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「東京湾」という名称、正式に決まったのはなんと昭和40年代だった

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猫柳蓮

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東京都民だけでなく、神奈川県民や千葉県民にもなじみ深い東京湾。そんな東京湾ですが、その名称となったのはあまり古い話ではありません。フリーライターの猫柳蓮さんが解説します。

東京海湾 → 東京湾

 東京都が面している海は東京湾ですが、その名称となったのはあまり古い話ではありません。国土地理院のサービスで見ると、明治初期の地図から使われているのがわかりますが、同じ頃に整備された海図には「東京海湾」と表記されています。

太平洋に開けた東京湾(画像:(C)Google)



 海図上では、長らくこの「東京海湾」という名称が使われてきましたが、昭和40年代になり東京湾の表記に変更され、ようやく定まりました。変更の理由は、海図に使用されている「海湾」という名称が日本の地形にふさわしくないとされたためです。

 湾は英語でいえば「Bay」で、施設名などに使われるよく知られた英語です。一方、海湾は英語では「Gulf」となります。

 Gulfは大規模な湾を示し、ペルシア湾は「Persian Gulf」。メキシコ湾は「Gulf of Mexico」となります。東京湾はそこまでの規模ではないため、「海湾はおかしい」となったわけです。

 では、明治以前はどう呼ばれていたのでしょうか。歴史の概説書を読むと「江戸湾」という表記が頻繁に見られます。しかし、江戸時代は誰も江戸湾と呼んでいませんでした。

江戸時代は「内海」「裏海」の記述も

 現在の東京湾が初めて登場した文献は、『古事記』と『日本書紀』です。

 ここには景行天皇40年、東征を命じられた日本武尊(やまとたけるのみこと)が船で上総国(かずさのくに。現・千葉県中部)に渡ろうとしたところ、神が起こした嵐によって船が沈没寸前に。このとき、妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に身を投じて嵐が治まったとされています。

『日本書紀』ではこのことを「故二時人其ノ海ヲ號(な)ケテ馳水(はしりみず)ト曰ク」と記しています。『古事記』でも差異はあるものの、同様のことが記され、海が「走水」と呼ばれたとされています。

 湾全体を指す言葉なのか、湾の一部を指す言葉なのかはっきりしませんが、これが東京湾の名称の記されたもっとも古い文献です。

 神奈川県横須賀市にある走水神社は創建の由来は明確ではありませんが、日本武尊が立ち寄った際に自らの冠を村人に与え、彼らが祭ったことに始まるとされています。

神奈川県横須賀市にある走水神社(画像:(C)Google)



 さらに『日本書紀』の景行天皇53年には、天皇が上総国から海路で淡水門(あわのみなと)に渡ったことが記されています。これは、後の安房国(現・千葉県南部)のこととも、館山湾のことともいわれています。

 後の文献では、江戸時代初期の随筆家・三浦茂正の書いた『慶長見聞集(けいちょうけんもんしゅう)』があります。

 三浦茂正は相模三浦氏の一族で長らく後北条氏に仕えていましたが、小田原征伐で後北条氏が滅亡した後は農民となり、後に天台宗の僧・南光坊天海に帰依。自らの見聞を書き残しました。そのひとつが『慶長見聞集』です。

 ここでは「相模、安房、上総、下総、武蔵、5国の中に、大なる入り海あり」と記されており、江戸時代の漁場争いの記録では「内海」「裏海」という記述があります。

 どうやら江戸時代の人々は、房総半島と三浦半島に囲まれた海を仕切られた湾として認識していなかったようです。あくまで「江戸前の海」などと呼ぶ程度。当時は、現在のように東京湾をまとめて開発するような巨大なプロジェクトが存在しなかったため、湾をひとつの名前で呼ぶ理由がなかったのです。

江戸湾 → 東京湾

 現在の東京湾をひとつの海として認識する人が現れたのは、もっと後の時代になってからでした。

 江戸後期の経済学者・佐藤信淵(のぶひろ)は印旛沼開発と東京湾沿岸の開発を併せて行う壮大な構想を提案し、『内洋経緯記』という書物を書いています。ここで現在の東京湾には「内洋(うちなだ)」という名称が与えられています。

佐藤信淵『内洋経緯記』(画像:酒田市立光丘文庫、国文学研究資料館)



 一方、外国人は早い段階からひとつの湾とする意識を持っていました。1690年にヴェネチアで、1704年にアムステルダムでつくられた日本図には、それぞれの国の言葉で江戸湾という表記が使われています。

 このことから、現在の東京湾をひとつの海として表現する言葉が広まったのは幕末になってからだと考えられます。1853(嘉永6)年の黒船来航の際、ペリーは江戸湾の浦賀にいかりを下ろしたことを日記に記し、アメリカ政府への報告書でも「エドベイ」という地名を使っています。

 その後の開国に至る交渉のなかで、日本でも次第に江戸湾という言葉と、江戸湾をひとつの海として考える見方が定着。明治になり、江戸が東京に変わったことで東京湾という名前に落ち着きました。そして冒頭の通り、昭和40年代に海図上の表記が東京湾に変更されたのです。

 ちなみにペリーは江戸湾の測量を行った際、地図に「アメリカ錨地(びょうち。停泊地)」「サスケハナ湾」などと勝手な名称を書き込んでいますが、こちらのほうは定着することはありませんでした。

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