原宿駅前の熱狂 一世を風靡した「ホコ天」はなぜ消滅したのか

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原宿駅前の熱狂 一世を風靡した「ホコ天」はなぜ消滅したのか

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猫柳蓮

フリーライター

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1970年代から90年代にかけて、原宿には流行に敏感な若者がけん引した歩行者天国文化がありました。現在では廃止となったその歴史を、フリーライターの猫柳蓮さんが解説します。

背景にあった「バンドやろうぜ!」な時代

 新駅舎が先日開業した原宿駅。木造建ての旧駅舎は96年の歴史に幕を下ろし、解体されることになりました。そして、若者の街・原宿も様変わりしようとしています。

 原宿駅の風景として思い出すのは、かつて歩くこともできないほど人を集めた「ホコ天(歩行者天国)」とインディーズバンドでしょう。とにかくバンドを組む――それが1980年代の中高生にとっては、人生の必須事項でした。

1980年代。東京の代々木公園前の歩行者天国でパフォーマンスを繰り広げる「竹の子族」(画像:時事通信フォト)



 ホコ天が隆盛する背景となった1980年代のバンドブームの特徴は、バンドの演奏を楽しむのではなく、「バンドやろうぜ!」という中高生がどっと増えたことでした。この時代、ミニコンポや携帯音楽プレーヤーは安価になり、音楽を聴く機会は以前より格段に増えていました。

 そこに流れるロックやパンクを通じて、音楽が「誰でもできるもの」「バンドは組めるもの」という意識が広がっていったのです。

テレビ番組が人気を後押し

 とりわけギターは「コードさえ覚えればなんとかなる」と言いはやされていましたが、その必要性すらもなくなりました。市販されるバンドスコアはTAB譜が当たり前となり、コード表を見て「C」や「F」などを覚えなくとも、指の置き方を理解できるようになり、グッとハードルは下がったためです。

 こうして中学や高校は、いくつものバンドを組んでいる人が当たり前という状況が生まれました。

ギターを練習するイメージ(画像:写真AC)

 それをベースに台頭したのが、インディーズバンドの登場です。彼らは誰も考えつかなかった先進性を追い求めており、活動の中心地となったのは、原宿のホコ天でした。

 1989(平成元)年から1990年にかけて一時代を築いたテレビ番組、「イカ天」こと『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS系)の隆盛もあり、ホコ天に集まるインディーズバンドはとにかく人気を呼びました。

 今は亡き池田貴族の「Remote」、セーラー服に革ジャンというスタイルが話題になった「えび」。中高生に大人気の「YELLOW DUCK」など人気バンドが次々と生まれたのです。

1970年代後半に、若者文化の拠点に

 もともとホコ天は1970(昭和45)年、当時の東京都知事・美濃部亮吉と警視総監・秦野章の発案で、銀座や新宿、浅草、池袋で始まったものでした。

 1970年代を通じて、全国に増加していったホコ天。その中で原宿が若者文化の拠点となったのは1970年代後半のことでした。

現在の原宿から表参道にかけての様子(画像:写真AC)



 1977年6月に原宿の表参道側でホコ天が始まるとすぐに、路上で踊る「ローラー族」が出現します。

 ローラー族とは、1950年代のファッションに身を包みロカビリーを踊る若者たちのこと。これに続いてブームになったのが、「ブティック竹の子」の服を着て踊る「竹の子族」です。

 踊る若者やそれを見物する若者で、路上はすぐに満員になりました。まだまだ血の気の多い人ばかりであふれていた昭和ですから、けんかも日常茶飯事。そうしたトラブルや若者たちの要望もあって、ホコ天は1980年に代々木公園側へ広がります。

増え続けるトラブルに、ついに警察が……

 こうして広大になった原宿のホコ天からは、芸能界にデビューするスターも現れます。

 前述の竹の子族からは俳優の沖田浩之が、1984(昭和59)年に登場したパフォーマンスグループ「一世風靡(ふうび)セピア」からは、現在も芸能界で活躍する哀川翔や柳葉敏郎が生まれました。

ホコ天出身で、現在も俳優として活躍する柳葉敏郎(画像:融合事務所、伊東園ホテルズ)

 このように常に若者文化の中心地であった原宿ですが、1990年代に入ると暗雲が立ちこめます。

 あまりにも多い若者たちの数、そこで発生するトラブルの数は、警察が看過できないものになっていきました。人が集まるとトラブルが増えるのは必然です。それはいつでも折り込み済みのはずでした。

バブル崩壊が社会から奪った「余裕」

 1990年代初頭、バブル景気が終わり、日本に停滞期が訪れると社会からそのような余裕が消えていきます。

 とりわけ問題視されるようになったのが、人がたまるスポットです。人がたまれば犯罪が起きる、ならば集まることができないようにすればいいのではないか――そのような治安対策が一種のブームになったのです。

停滞する東京のイメージ(画像:写真AC)



 そのように窮屈になっていく社会で、若者が集まって演奏したり、パフォーマンスをしたりする原宿のホコ天は、すでに許容できるものではありませんでした。

 そしてホコ天文化は、消滅へと向かいます。理由は1996(平成8)年1月を持って、警視庁が原宿のホコ天を廃止することを決めたことによるものです。

ホコ天廃止も、新たな文化の萌芽も

 ホコ天はもともと歩行者天国で、あくまでも車の交通を遮断して歩行者が自由に歩けるようにした道路でした。

 その道路で、勝手に演奏するのは本来禁止です。これまで大目に見てきたものの、若者が集まって交通渋滞が発生しているのであれば、緩和しなくてはならない――というのが、ホコ天を廃止するための論法でした。また廃止はあくまで試験的なものと、当時は説明されていました。

 廃止に反対する声も当然上がりましたが、大きな盛り上がりには至りませんでした。というのも、その時点でインディーズバンドの盛り上がりから既に10年が経過し、その文化自体が疲弊していたからです。

 こうして一時代を気づいた原宿のホコ天文化は、驚くほど静かに消滅していったのです。それは、日本が「失われた10年」へと突入する象徴的な出来事だったといえるかも知れません。

外国人観光客にも人気の現在の秋葉原(画像:写真AC)

 しかし、停滞もいつまでも続くものではありません。若者たちの文化は、その後も形を変えて新たに花開いていきました。2000年代初頭からオタク文化を軸に、大発展した秋葉原はその代表格といえるでしょう。

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