童謡「赤い靴」の真実 女の子は異人さんに連れて行かれはしなかった

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童謡「赤い靴」の真実 女の子は異人さんに連れて行かれはしなかった

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合田一道

ノンフィクション作家

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子どもの頃、誰もが1度は口ずさんだことのある童謡「赤い靴」。そこに歌われた女の子の数奇な運命をご存じですか? ノンフィクション作家の合田一道さんが、彼女の短い生涯をたどります。

東京でひっそり亡くなった、女の子の物語

赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠場(はとば) から 船に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった

 野口雨情作詞、本居長世(もとおり ながよ)作曲の童謡「赤い靴」が雑誌『小学女生』に掲載されたのは1921(大正10)年。ちょうど100年前です。

誰もが知る童謡「赤い靴」に歌われた女の子とのその後は?(画像:写真AC)



 でもこの女の子、実は海を渡ることもなく、ひっそりと東京で亡くなっていた、というのです。

誰もが知る童謡へと歌い継がれるまでの軌跡

 雨情がこの詩を書くきっかけになったのは1907 (明治40) 年、札幌の小さな新聞社「北鳴新報」の記者時代です。一軒家を借りて住まううち、新しく入社してきた鈴木志郎記者夫妻も同じ屋根の下で暮らすことになります。

 この志郎記者の妻かよから、意外な話を聞くのです。

 かよは静岡県生まれ。志郎と結婚する前に、佐野という男性との間に、きみという女の子がいたのです。でも、かよは未婚の母であり、きみは父を知らない「非嫡出子」扱いでした。かよは幼子を抱いて逃げるように北海道へ渡り、函館で過ごすうち、志郎を知ります。

 開墾(かいこん)を目指す志郎に求婚されたかよは、幼いきみを連れていくのは無理と断ります。そこへ別れたはずの佐野が現れ、東京にいるアメリカ人宣教師夫妻が養女を欲しがっていると伝え、きみを手放すよう勧めます。

 かよは涙ながらにきみを宣教師夫妻に託したのでした。

福島県いわき市の「野口雨情記念湯本温泉童謡館」に並ぶ、雨情の作品集(画像:(C)いわき観光まちづくりビューロー)

 志郎とかよは北海道の留寿都(るすつ)村に入植し、開墾にいそしみますが、やがて夫妻で札幌に移り、新しい暮らしを始めたのでした。

 雨情は、その女の子がいまはアメリカでどんな暮らしをしているのかと思い、後に東京に移ってから雑誌に発表したのです。「赤い靴」は大評判になり、誰もが口ずさむようになりました。

 昔は「人さらい」がいるといわれ、子どもが悪いことをすると、「異人さんに連れていかれるぞ」などと脅されたものです。異人さんに連れられて船で遠い異国へ旅立った女の子への物悲しい思いが、美しい旋律と重なって人々の心を揺さぶったのでしょう。

今、彼女がたたずむ麻布十番、横浜、留寿都

 ところが「赤い靴」が発表されて半世紀も過ぎた1973 (昭和48)年初冬、北海道新聞の読者欄に、富良野市に住む女性から投書が寄せられたのです。

 きみの妹に当たる方からで、そこには、母かよはすでに亡(な)いが、生前、外国人宣教師に養女に出したきみのことを悔やみ、かわいそうなことをしたと話していた、と書かれていました。

 この投書に着目した北海道テレビのプロデューサーがきみの妹に会い、アメリカに飛んできみを養女にした宣教師を探し、ヒュエット夫妻の存在を突き止めました。しかし、女の子がアメリカに来たという事実はつかめないままでした。

 では、きみはどうなったのか。追跡調査の結果、宣教師夫妻に突然、転動命令が出て、病弱だったきみを残して日本を離れたこと。きみは東京都港区の麻布十番にあったメソジスト孤児院で暮らすうち、わずか9歳で亡くなっていたことなどが判明したのです。

港区の麻布十番商店街の中の広場に立つ「きみちゃん」像(画像:ULM編集部)



 きみの墓は青山霊園(港区南青山)、鳥居坂教会の共同墓地にあります。十字架のついた墓の裏側に「墓誌」として、亡くなった人々の名が見えます。上段の右から11番目の「佐野きみ」がそれに当たります。佐野姓は実の父親の姓です。

 赤い靴の女の子の像は、横浜の波止場に近い山下公園(横浜市中区)にありますが、ほかに東京の青山霊園管理事務所の玄関脇や生誕地の静岡市、北海道の小樽市、それに両親が入植した留寿都村にもあります。

 小樽の運河公園は両親が晩年を暮らして亡くなった地で、ここには「赤い靴・親子の像」が、また静岡の日本平頂上には、かよときみが手を取り合う「母子像」が、留寿都にはきみの「母思像」と、かよの「開拓の母像」が、離れて立っているのです。

教えておくれ あの子は元気で暮らしているか

 筆者(合田一道。ノンフィクション作家)は留寿都村に出掛け、きみの母思像型のオルゴールが制作され、各家庭に配られていることを知りました。

 地元の作曲家、見野和幸さんが「赤い靴」の続編ともいえる「渡り鳥よ」という歌を作り、地元の合唱団のお母さんたちがこんな歌を歌ってくれました。

母かよたちが移り住んだ留寿都村に立つ、きみの「母思像」(画像:留寿都村観光協会)



渡り鳥よ 教えておくれ あの子はどうしているのやら
異国のことを 教えておくれ あの子は元気で 暮らしているか
あの子はどうして いるのやら

 澄みきった青空の下で、美しい女性コーラスを聞きながら、母と子がたどった数奇な、 そして苦難の道を思うのでした。

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