16ビットから32ビットへ
小池百合子都知事が外出自粛を呼びかけるなど、新型コロナウイルスの流行で緊迫感の増している東京。外出自粛について意見はさまざまありますが、しばらくはあまり外出せずに自宅で過ごしたほうがよさそうです。
そうなったときの娯楽といえば、やはりテレビゲームか動画配信でしょう。
テレビゲームといえば、かつてはどんな家庭用ゲーム機も「ファミコン」と呼ばれた時代がありました。というのも任天堂(京都市)がファミリーコンピュータ(ファミコン)、そしてスーパーファミコンでシェアのほとんどを握っていたからです。
1983(昭和58)年に発売されたファミリーコンピュータ、1990(平成2)年に発売されたスーパーファミコンによって築かれた「任天堂ひとり勝ち」の時代が終わり、群雄割拠が始まったのは1994年末のことでした。
同年、スーパーファミコンは累計販売台数1300万台を超え、家庭用ゲーム機のシェア9割を握っていました。
もはやどんな企業でも太刀打ちできないと思われた任天堂。ところが1994年の秋ごろから「今度ばかりは任天堂も危ないかも」という声が聞こえてくるようになってきました。さまざまな企業が年末商戦に向けて、スーパーファミコンの16ビットを超える32ビットの高性能な次世代機の投入を始めたからです。
プレイステーション(SCPH-1000)(画像:ソニー・インタラクティブエンタテインメント)
この年の3月には松下電器産業(現・パナソニック)から「3DO REAL」、11月にはセガ・エンタープライゼス(現・セガゲームス)から「セガサターン」、12月末にはNECホームエレクトロニクス(当時)から「PC-FX」、ソニー・コンピュータエンタテインメント(現・ソニー・インタラクティブエンタテインメント)から「プレイステーション」が発売されました。
32ビットから64ビットへ
家庭用ゲーム機は当時、新聞や一般誌などでも既に巨大な産業となっていました。子ども向けと思われていた家庭用ゲーム機に大人が注目する動きは、1980年代後半に始まっています。
1988(昭和63)年には写真週刊誌『FLASH』3月22日号が、発売直後の『ドラゴンクエスト3』の最後の5画面とナゾ解きの鍵を「やったネ ドラクエ3の最終画面を本邦初公開」として見開きカラーで掲載。製作元のエニックス(現・スクウェア・エニックス)から著作権侵害で訴えられる事件も起きています。
スーパーファミコンに取って代わるとされた次世代機で、多くの人が知った言葉が「ポリゴン」です。従来のゲームとは異なる立体感のある表現で、既にゲームセンターで普及し始めていました。そんなハイクオリティのゲームが自宅で楽しめるとなれば、人気になるのは当然です。
ただ、各メーカーにも焦りはありました。任天堂は既に、32ビットを超える64ビットの家庭用ゲーム機を開発していると公表していたのです。発売時期は早ければ1995年秋とされていました(結局、「NINTENDO64」として1996年6月に発売)。
各社の課題は「どれだけ売れるか」。先陣を切った3DO REALは5万4800円という価格が災いしたのか、初年度目標100万台に対して9月末で30万台と苦戦(『FOCUS』1994年11月9日号)。11月末からは価格を1万円下げることを発表し、再び注目を集めました。
次世代ゲーム機戦争を戦った「セガサターン」(画像:セガゲームス)
対してセガサターンは11月、当初より5000円下げた4万4800円で発売開始。12月発売開始のプレイステーションは、3万9000円でした。
当時売れていたハードとソフト
さて、年末商戦を経て『宝島』1995年2月22日号には、秋葉原の販売店「メッセサンオー」の1994年11月22日から1995年1月20日までの「売り上げランキング」が掲載されています。ランキング結果は次の通りです。
●ハード
1位:セガサターン
2位:ネオジオCD
3位:プレイステーション
4位:スーパーファミコン
5位:3DO REAL
●ソフト
1位:バーチャファイター(セガサターン)
2位:真サムライスピリッツ(ネオジオCD)
3位:クロックワークナイト(セガサターン)
4位:スーパードンキーコング(スーパーファミコン)
5位:ゲイルレーサー(セガサターン)
ほぼ格闘ゲーム専用機で、マニアしか買わなかった「ネオジオCD」がたくさん売れているのは、さすが秋葉原です。年末商戦でプレイステーションがセガサターンに後塵(こうじん)を拝したのは出荷台数が少なかったからだとされています。
ゲームマニアに人気だった「ネオジオCD」(画像:SNK)
さまざまな意見もありましたが、この時点で次世代機の本命はセガサターンとプレイステーションに絞られていました。理由は、このふたつの家庭用ゲーム機が有力なソフトを確保することに成功していたからです。
セガサターンでは「バーチャファイター」、プレイステーションでは「リッジレーサー」「鉄拳」が人気タイトル。余談ですが、筆者(昼間たかし。ルポライター)がプレイステーションを買った理由は「闘神伝」でした。
セガサターン優位な状況へ
ここからしばらくの間は、セガサターン優位な状況が続きました。
理由はなんといっても、「バーチャファイター」の存在です。1995年12月に発売された「バーチャファイター2」は100万本を突破する超人気タイトルとなり、アーケード版も含めて社会現象となりました。
セガサターンは1995年6月に、「バーチャファイターリミックス」のソフトを付けて3万4800円と大幅に値下げされました。さらに11月にはキャッシュバックキャンペーンで2万4800円程度まで価格を下げされ、人気を後押しました。
専用コントローラが特徴的な「NINTENDO64」(画像:任天堂)
一方、プレイステーションも1995年5月に2万9800円に値下げ。1996年に入ってNINTENDO64が2万5000円で発売される頃には、どちらも1万円台で買えるようになっていました。
一転、プレイステーション優位へ
この値下げ競争の最中の1996年2月、ソニーはついに次世代機の「最終戦争」に大手をかけました。
プレイステーションで、超ビッグタイトル「ファイナルファンタジー」シリーズの新作「ファイナルファンタジーVII」が発売されることを発表したのです。潮目は完全に変わり、プレイステーションはついに勝者となりました。
もちろん、セガサターンのゲームも魅力的でした。『サクラ大戦』はセガサターンでなければプレイできませんでしたし、ヒロインがプレーヤーの名前を呼んでくれるある作品の技術には感涙したものです。
しかし、多くの人が買うメジャーなタイトル = プレイステーションという状況はどんどん拡大していきました。
プレイステーションが勝者となった理由
プレイステーションが勝者となった理由は、「ゲームにまつわる新たな状況を作り続けてきた」からだと、プレイステーションの生みの親である久夛良木健(くたらぎ けん)さんは語っています(『現代』1997年6月号)。
ソニー・コンピュータエンタテインメントは市場を研究し、ファミリーコンピュータを支えてきた問屋を通した流通システムに対して、販売店に直接おろすシステムを選択しました。
また品質維持の目的などから、開発会社に対して高額なロイヤルティーを求めていた任天堂(スーパーファミコンの場合、価格1万円に対して3000~4000円)より安いロイヤルティーを設定。
なによりもCD-ROMを採用することで、スーパーファミコンでは1万円を超えていたソフト価格を5000円台まで値下げすることに成功。こうした施策によって優良な開発会社をプレイステーションへ移行させたのでした。
時代はスマホゲーム全盛(画像:写真AC)
それから既に20年以上が経過。次世代機戦争では敗北を喫した任天堂は現在、「Nintendo Switch」の成功で再び人気を集めています。「プレイステーション4」も魅力的な家庭用ゲーム機です。
一方、現在の多くの人が楽しんでいるのはスマホゲームです。筆者はどうしてもこれになじめず、Nintendo Switchやプレイステーション4につい魅力を感じてしまいます。
と言うのも、友人と集まって14インチのブラウン管テレビで格闘ゲームをやったり、恋愛ゲームでチャート図を作ったりしながら攻略していたときが一番熱く、楽しかったからです。