2020年、おそらく一番の話題作
「毎日読んでた。考えさせられたし、すごく勇気づけられた」
「終わったとたんに商売っ気モロ出しで、ちょっと引いた」
これほど議論を巻き起こした作品も、珍しいかもしれません。
漫画家・きくちゆうき氏によるSNS(会員制交流サイト)発の『100日後に死ぬワニ』(以下、「100ワニ」)です。
2019年12月19日(木)に始まった連載は1日に4コマ漫画が1作ずつ、100日連続で公開されていく進行で、100日めとなる2020年3月20日(金)夜、主人公であるワニの死をもって完結を迎えました。
ツイッターなどでは連載中から、「何気ない日常の大切さを考えさせられる」「誰にとっても『死ぬ100日前』があって、でもそれを知らないまま日常を生きていることもあるんだと気づかされた」など称賛の声が上がる一方、「死をエンターテインメントの一種にしているのではないか」といった批判も起こり、ファンも懐疑派も目が離せない展開となりました。
さらなる議論を呼んだのは、最終話の公開から1時間もたたないうちに作者・きくち氏のアカウント上で、数十種類以上に及ぶ関連グッズの発売や書籍化、さらには映画化や人気バンドいきものがかりとのタイアップ楽曲までもが発表されたためです。
想像を超える大掛かりな商業展開に驚いた読者たちからは
「え、なんていうか、仕事早いですね……」
「怒涛のグッズ展開で丸儲けかあ」
「せっかく感動してたのに、正直しらけてしまった」
「もうちょっと作品の余韻を味わわせてよ……」
と批判的意見も寄せられ、きくち氏がその意図についてSNS上で“釈明”するにまで至りました。
「グッズ買う奴は踊らされてるだけ」などと揶揄(やゆ)する声が上がるなか、連載終了の3月21日(土)にオープンした渋谷ロフト(渋谷区宇田川町)の特設売り場「100ワニ追悼(ついとう)ポップアップショップ」は、大勢のファンで連日にぎわいを見せています。
ファンは作品の何に引かれたのか、どんな思いで売り場を訪れたのか、その声を聴いてみました。
「毎晩、娘に読んで聞かせていました」
「自分自身も自分の家族も、例えば1日後、1時間後、10分後に死ぬかもしれないんだ――。そんな、日常で考える機会のない示唆を作品からいただきました。それも毎日」
静岡県御殿場市から訪れた35歳の女性会社員は、連載初日から見守り続けた「100ワニ」の感想をいとおしそうにそう話します。
100日後に死んでしまうというのに、それを知らない主人公のワニは、怒ったり落ち込んだり立ち直ったりを繰り返しながら、毎日を誠実に生きていた。その姿勢に胸を打たれたと言います。
買い物かごに入れたハンカチやシールは、ふたりの娘にあげるおみやげ用と、自分自身で持ち歩く用。「死について考えさせられた100日間の思いを、ことあるごとに思い出せるように」身に着けておきたいとのこと。
毎晩4コマを読み聞かせていた2歳の次女は、「ワニさん、死んじゃったの?」と死をまだ理解できていない様子。「もっと大きくなったら、また読んであげたいと思います。年齢によって、受け取り方もどんどん変化していくのでしょうね」
「違和感の正体を確かめに来た」
練馬区に住む32歳の男性会社員は、少し遠くから売り場を眺めた後、何か決心するような神妙な表情で足を踏み入れました。
「『死』をテーマにしている割に、キャラクターはかわいらしくて、ポップで、死についての直接的な描写もなかった。淡々と日常が続いていって、最後は遠回しな表現で、あっけなく終わってしまいました。かと思えば終了直後から『商売主義』とたたく声が上がって、そのせいで作品の意味とか十分に議論されないままになっているのが、すごく気になっています」
「作品を読み続けるなかで自分のなかに起こった(死についての)問いや違和感が残り続けていて、この違和感は何なのだろうと、それを確かめたくて今日足を運びました」
作品は果たして単なる「100日間の娯楽」として、さらには「商業主義」との批判対象として消費され、終わってしまうのだろうか――。そう懸念していた男性は、店内の熱気を見まわし、「そんなことなさそうですね」と少しホッとしたような表情を見せました。
「生きるって、そういうことだ」
とても若いファンの姿も目立ちました。千葉市から来店したのは、中学1年生(13歳)と高校1年生(16歳)のふたり姉妹。
「ワニが死んでしまうのは最初から分かっていたことだけど、死んでしまって、やっぱり寂しかった。でもそれはひとごとじゃなくて、自分たちも同じ。いつかは死ぬ、生きるってそういうことなんだって、うまく言えないけど強く感じました」とお姉ちゃん。
妹は「またゆっくり読み返したいし、グッズも手元に置いておきたいです。(グッズ展開への批判もあるが)100日間読み続けてきて感じた思いや感動は、別に消えることはないです」。
さいたま市に住む高校1年の女子生徒(16歳)は「作者の方にお礼を言いたい」と話します。「今まで考えたこともないことを、考える機会をくれたから」
「100日後に死ぬということを、私たち(読者)は知っているのに、ワニくん本人は知らない。教えてあげたいけど、教えられない。何も知らないままワニくんは、毎日一生懸命に生きていた。何でもない日常の雰囲気がとてもリアルで、自分自身や友達のことのように身近に感じていました」
「(連載終了後に)批判が出たとき、確かに作品の余韻をもっと味わっていたかったなという思いと、それでもやっぱり『100ワニ』が好きだし、毎日休まず作品を届けてくれた作者さんありがとう、という気持ちがありました。今日お店に来てみて、そう感じているのは私だけじゃないみたいで、よかったです」
「しばらくはワニロスの余韻を楽しみます」
以前から、きくち氏のファンだったという人も。
板橋区在住のアラサー男性は、きくち氏の名が全国区で売れたことを喜びつつ、「100日間も無料で楽しませてもらったファンとしては、グッズを買って感謝の気持ちを表したい。『もうすぐワニだな』というのが(毎日作品がアップされる19時頃の)毎晩の口癖になっていたから、今はすっかり『ワニロス』です。グッズを手元に置いて余韻を楽しみます」
「生きる」ことを考える春の日
最終回を迎えた2020年3月20日は「春分の日」。二十四節気のひとつであり、占星術では新しい1年の始まりを意味する日でもあります。
くしくも2020年東京の春は、史上最も早いソメイヨシノの開花が3月14日(土)に観測され、春分の日を含む3連休には満開の見頃を迎えました。
作者のきくち氏が最終話の配信日を「春分の日」と決めていたのか、定かではありません。しかし最終回と時を同じくして桜が満開を迎えるということまでは、連載開始当初には予見できなかったはずです。
「『死』まであと何日」という言葉を99回繰り返してたどり着いた最終回。そこに待っていたのは、逆説的な「生きる」ことについての問い掛けと、事の始まりを意味する春分、そして満開の桜の花でした。
渋谷ロフトの店内には、ワニをしのんでファンたちが書き記した桜の形の寄せ書きが。
「ワニくん、生きててほしかった。ありがとう」、そんな言葉ににじむファンの思いを感じつつ、ワニの日常に突然訪れた死が春の晴れた日であったということの意味に、改めて思いをはせてみたくなります。
渋谷ロフトのポップアップショップは2020年4月24日(金)まで。混雑する週末などには整理券配布などの対応が取られることもあります。