さながら少年漫画の成長秘話 一夜にして大化けした名役者『淀五郎』【連載】東京すたこら落語マップ(8)

落語と聞くと、なんとなく敷居が高いイメージがありませんか? いやいや、そんなことないんです。落語は笑えて、泣けて、感動できる庶民の文化。落語・伝統話芸ライターの櫻庭由紀子さんが江戸にまつわる噺を毎回やさしく解説します。


白羽の矢が立った若手役者・淀五郎

 忠臣蔵といえば吉良邸討ち入りの年末がイメージですが、忠臣蔵ストーリーは3月14日、浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)が切腹に処されたことから始まります。

 松の廊下で吉良上野介に斬りつけたことに対する、一方的な処分でした。この一連の事件をネタ元とした仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)では松の廊下事件を三段目に、塩谷判官(えんやはんがん。浅野内匠頭)の切腹シーンを四段目に描いており、前半の見せ場となっています。

東洲斎写楽画 二世沢村淀五郎の川つら法眼(右)と坂東善次の鬼佐渡坊(画像:櫻庭由紀子)



 今回は、この仮名手本忠臣蔵を演じる役者たちのエピソードが語られる「淀(よど)五郎」で江戸を歩いてみましょう。

※ ※ ※

 仮名手本忠臣蔵の興行が始まるというある日、塩谷判官役の役者・沢村宗十郎が急に倒れてしまった。代演を立てようにも見合う人物がいない。大星由良之助役で座頭の四代目市川団蔵が、紀伊国屋(宗十郎)の弟子で芝居茶屋の息子で下回りの役者・相中(役者の序列のひとつ)の沢村淀五郎に白羽の矢を立てた。

 市川団蔵といえば意地悪団蔵、皮肉団蔵と呼ばれ、当時は田舎であった目黒に住んでいて目黒団蔵と言われた変わり者。この団蔵に名指しされ、名題に昇進した淀五郎は大抜てきに大喜び。張り切って周辺にあいさつを済ませ、いよいよ初日を迎えた。

 判官が師直(吉良上野介)に斬りかかる三段目・館騒動の段を終え、四段目・判官切腹の段。

 舞台中央・腹切の間に淀五郎の判官。側に控える力弥に由良之助の様子を聞くが「未だ参上仕(つかまつ)りませぬ」。「無念じゃと伝えよ」と九寸五分を腹に突き立てたその時、花道から団蔵・由良之助。判官の側に駆けつけ「御前!」「待ちかねたぞ……」とやる名場面というところで、由良之助が花道で平伏したまま動かない。

「長生きしてるとこんな下手くそな役者と芝居をやらなくちゃならねえ。ああ、いやだ、いやだ」とぼやいている。

 いくら「近う、近う」と呼びかけても「委細、承知仕ってございます」と動かない。仕方がないので側に来ないのに「待ちかねたぞ」とやり、由良之助が花道にひれ伏したまま舞台を終えた。

一夜にして開眼した淀五郎の名演技

「しくじったか」と淀五郎、慌てて団蔵の元へ。自分の芝居の何がダメだったのかを聞いても答えてくれない。「芝居がダメな役者は死んだほうがマシ。舞台で本当に腹を切って死にな」と言われ、すごすごと帰って来た。

 一生懸命にあれこれ工夫をして、次の日四段目に挑んでみたが、やはり由良之助は側に来ない。淀五郎は「明日も天井を見ることになったら、江戸にはいられない。そうだ。本当に腹を切って死のう。その時には、団蔵も殺す」と決心し、世話になった堺屋の中村仲蔵・秀鶴の元へいとま乞いにいった。

 事情を聞き出した秀鶴、淀五郎の演技をみて、なるほど団蔵が動かないわけだと納得。「淀五郎の切腹ではない。五万三千石の大名、無念の切腹なのだ」と淀五郎に稽古をつけてやった。

 淀五郎は秀鶴に教わったことを覚えこもうと夜通し稽古をして、いざ三日目の舞台へ。「今日もダメだったら団蔵を殺して自分も腹を切る」と決心しているものだから、喧嘩場の迫力が常軌を逸している。驚いた団蔵も「これは楽しみだ」と四段目に挑んだ。

 そしていよいよ切腹の段。一夜にして変貌した淀五郎に団蔵は感服。「富士の山が一夜にしてできちまった。一体誰の型だ。なるほど、秀鶴だな」とニヤリ。

 これは出てやらねばなるまいと、今度は花道を駆けて判官の元へピタリ。淀五郎は、まさか昨日の今日で団蔵が側に来ていると思わない。花道をみると団蔵がいない。「あの野郎、今度は出て来もしないのか。只じゃおかねえ。しかし、声はしたようだが」とかたわらを見ると、三日目にいた。

「うーん、待ちかねたぞ」
(六代目三遊亭圓生)

※ ※ ※

かつて日本橋人形町にあった市村座

●目黒
 淀五郎の素質を見抜き、判官役に抜てきした四代目団蔵の住まいが目黒です。

 当時の目黒といえば、落語「目黒のさんま」に描かれた通りの農村地帯。徳川家も鷹狩りに訪れるほどの場所でした。下目黒村と上目黒村は江戸中心地に近かったため、茶屋や植木屋、料理屋、荒物屋が並び、目黒不動の門前町としてにぎやかだったと伝えられています。

 現在の東京大学教養部(目黒区駒場)がある辺りは、徳川家お気に入りの鷹場「駒場野」といわれ、人の背丈ほどもある笹や林のある広大な原野で、ウズラ・キジ・ウサギなどの宝庫だったそうです。

●中村座
 市村座、森田座とともに江戸三座と呼ばれた、幕府公認の劇場。淀五郎に稽古をつける初代中村仲蔵の頃は堺町(現在の日本橋人形町3丁目)にありました。『江戸名所』に「堺町、葺屋町の間に操り芝居、木偶(でく)芝居ありて、四時に賑わえり」と記されています。

 その後、江戸三座は天保(てんぽう)の改革により浅草猿若町(さるわかちょう、現在の浅草6丁目)に移転しています。

 それからも相次ぐ火事や失火、幕末の動乱などで移転を余儀無くされていましたが、1889(明治22)年、松竹が木挽町に歌舞伎座を開座したことをきっかけに、千歳座を加えた四座同盟を結び、歌舞伎座に対抗します。

 しかし、1893(明治2)6年の失火をきっかけに中村座は廃座。市村座と森田座も1923(大正12)年の関東大震災で廃座となり、江戸三座300年の幕を閉じたのでした。

浅野内匠頭の終焉を伝える碑

●浅野内匠頭終焉之地
 新橋4丁目日比谷通り交差点付近にある碑。実際の終焉(しゅうえん)の地は、この碑から50mほど東にいった田村邸です。

新橋4丁目の「浅野内匠頭終焉之地」碑(画像:櫻庭由紀子)



 1701(元禄14)年3月14日、江戸城松の廊下で吉良上野介を斬りつけるという刃傷事件を起こした浅野内匠頭は、奥州一之関藩(岩手県)田村右京太夫の上屋敷へお預けとなり、その日のうちにこの田村邸で切腹させられました。

 十分な吟味もなく、切腹、お家お取りつぶしの処分に対し、吉良上野介はおとがめなし。喧嘩両成敗が通例であった時代、異例といえる処分でした。

 この沙汰に対して異を唱え、赤穂四十七士が吉良邸に討ち入ったのが、世に言う赤穂事件。仮名手本忠臣蔵は、この事件の登場人物の名を変えて、フィクションを取り入れて脚色したものです。

 案内板には、浅野内匠頭辞世の句「風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」とあります。主君の墓前に吉良の首を供えた大石内蔵助の辞世の句は「あら楽や 思いは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし」でした。

●切腹最中の「新正堂」
 実際の田村邸跡にあるのが、大正元年創業の和菓子「新正堂」。

 こちらの名物が「切腹最中」。ふたつの割れた最中から餡(あん)が見えているというものです。客先をしくじったビジネスマンが、「断腸の思いでございます」という意味を込めて持参する菓子としても有名です(しゃれがわかる企業限定)。

 このほか、小判を模した最中もあり、時代劇でよく見る、「つまらないものですが」「お主も悪よのう」という悪代官ごっこができます(本物の最中ですが)。

名役者・沢村淀五郎は実在するのか?

 結論からいうと、沢村淀五郎という役者は実在します。しかし、団蔵と仲蔵との本エピソードが本当にあったかどうかは謎です。

 沢村淀五郎は、写楽の浮世絵「二世沢村淀五郎の川つら法眼 坂東善次の鬼の佐渡坊 義経千本桜」に残されています。

 1794(寛政6)年5月の河原崎座において上演された「義経千本桜」の内川連館の場のふたりが描かれているところをみると、本作の淀五郎は二代目だと考えられます。

 二代目淀五郎は、浮世絵に描かれた当時は実悪方で「上上白吉」。つまり、最上位の役者でした。

 とはいえ、二代目淀五郎が芝居茶屋の息子であり、かつ判官役で相中から名題に昇格したという史実は残っていません。1777(安永6)年11月1日森田座の顔見番付に、色悪・実事の役者として載っているのが確認できます。どのような色悪だったのか気になるところです。

淀五郎を磨き、高め合う団蔵と仲蔵

 さて、今回は六代目三遊亭圓生の型を紹介しましたが、四代目団蔵「目黒団蔵」と初代仲蔵「堺屋の秀鶴」の型は六代目圓生だけです。

 古今亭志ん生、八代目林家正蔵(彦六の正蔵)は五代目団蔵「渋団」と三代目仲蔵「舞鶴屋」でやっており、1897(明治30)年の四代目橘家円喬の速記によると五代目団蔵「渋団」に初代仲蔵「秀鶴」です。

勝川春章画 初代中村仲蔵の斧定九郎(画像:櫻庭由紀子)



 実はこの噺、淀五郎の出世がテーマではありますが、裏のテーマは団蔵と仲蔵の物語ではないかと感じます。団蔵の指導が「自分で気づかせるためにあえて冷たく突き放す」考えに対し、仲蔵は「型の大切さ」を解き、わかりやすく実際の演じ方を示し稽古をつけています。

 淀五郎という原石を、誰がどう磨いていかに輝かせるのか。ふたりの名人が淀五郎を通して静かに拮抗(きっこう)し、成長した芸をみてお互いの力量にニヤリとする。しかし、当の淀五郎はいまいちよくわかっていないという、少年漫画のようなドラマが隠されているように思えます。

 これらを踏まえてそれぞれの型を聴いてみると、圓生の型では仲蔵が9歳ほど団蔵よりも年齢が上であり、なるほど秀鶴たる重みが感じられます。一方、志ん生や彦六の正蔵の型では団蔵が20歳ほど上の設定となり、仲蔵が淀五郎とともに団蔵に挑もうとする現役感が漂っているのもうなずけます。

 こういった型の違いを楽しめるというのも、落語や伝統芸能の醍醐味(だいごみ)です。


【和菓子】知ってる? あんこタップリもなか「切腹最中」

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