上野公園になんと50種類以上のサクラがあった――花見「自粛」のいまこそ知っておきたいこと
2020年3月18日
知る!TOKYO新型コロナウイルス拡大の影響で毎年恒例の「うえの桜まつり」は開催が見送られることに。しかし上野公園には「宴会用」だけではない、美しいさまざまな桜が植えられています。その魅力について、筑波大学大学院准教授の五十嵐泰正さんが解説します。
僧侶・天海が尽力した上野の「桜の名所化」
春になると、まず思い出すのは上野恩賜公園(台東区上野公園)の桜です。2019年の人出はなんと約400万人。全国に花見の名所は数あれど、2週間あまりの花見期間にこれだけの人が訪れるのはもちろんぶっちぎりの第1位です。

上野が桜の名所となったのは、江戸時代初期、徳川家に側近として仕えた僧侶・天海が、吉野の桜を植樹したことに始まります。
徳川家の菩提(ぼだい)寺・寛永寺(同区上野桜木)の創建に1622(元和8)年から取り掛かった天海はほかにも、清水寺に倣って清水観音堂を、琵琶湖の竹生島に見立てて不忍池に人工島を作って弁天堂をと、上方(京都およびその付近)の名所に見立てた堂宇(どうう。堂の建物)を次々に建立していきました。
これは、当時の文化先進地だった上方の名所を上野に再現し、しかもそれを一般に開放して、新興都市の江戸の庶民に親しまれるような名所を作る――という、天海による一種の文化政策でした。
江戸庶民に深く浸透した将軍家の威光
その結果、寛永寺は冷たい印象を与える「官」一辺倒の寺と受け止められることがなくなりました。
将軍家の威光は、上野の山という「楽しい行楽地」を提供してくれたことへの感謝の念とともに、江戸の庶民の心に深く浸透していったのです。
明治時代に上野の山が数々の博覧会の舞台となり、この地に日本を代表する文化施設が建設されていったのも、この時代の
「文化先進地 = 西洋の文化的威光」
という考えをもって、将軍家の威光を明治天皇と新政府の威信へと塗り替えようとした、明治政府の思惑があったと考えるべきでしょう。

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