交通事故から子どもたちを守ろう――「府中市交通遊園」から見る、交通公園に込められた願いとは
2020年3月1日
知る!TOKYO府中市にある1969年にオープンした府中市交通遊園について、文筆家の広岡祐さんが歴史をひも解き、解説します。
1万2000平方メートルに道路と歩道が配置
府中市郷土の森公園。東京競馬場に近接する多摩川沿いの広大な敷地に、体育館・プール・博物館などの公共施設が集まっています。かつては市民健康センターの名で親しまれてきたこの場所で、もっとも歴史ある施設のひとつが1969(昭和44)年にオープンした府中市交通遊園(府中市矢崎町)です。
1万2000平方メートルにおよぶ敷地の中には道路と歩道が配置され、交差点や横断歩道には、小ぶりながらもしっかりと動作する信号機が備わっています。

かつて日本各地にみられた交通公園は、子どもたちが遊びながら交通ルールを学ぶ場として設けられたものでした。今回は、戦後のモータリゼーション発展とともに全国に誕生した交通公園の歴史をひもといてみましょう。
交通戦争と子どもたち
1960年代後半から70年代初頭にかけて、全国で交通事故が急増したことがありました。事故の犠牲者数は年間1万人を超え、大きな社会問題に。1980年代半ばにもう一度交通事故の多発期があったため、この最初の時期はのちに「第1次交通戦争」とよばれることになりました。
第1次交通戦争は歩行者、中でも未成年者・児童の被害が多いことが特徴でした。交通安全教育が行きわたっていなかったことにくわえて、子どもたちを守る信号機や歩道橋などの設備が遅れていたのでした。
高度経済成長期の終盤、街から空き地や原っぱが減少していく中で、道路も子どもたちの遊び場だったことが事故が増える原因のひとつだったのでしょう。
1965(昭和40)年の全国の自動車保有台数は約698万台でしたが、5年後の1970年には実に1652万台。道路を行きかう車が激増していたのです。痛ましい事故の犠牲を少しでも減らすことが行政の課題となりました。

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