過剰な熱狂が生んだ「若きランナーの悲劇」 五輪目前に彼を思う

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過剰な熱狂が生んだ「若きランナーの悲劇」 五輪目前に彼を思う

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合田一道

ノンフィクション作家

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2020年東京五輪・パラリンピックの開幕まで、180日を切りました。思い返すのは61年前、1964(昭和39)年の東京五輪。ある若きマラソン選手の悲劇に、ノンフィクション作家の合田一道さんが思いをはせます。

大観衆がどよめいた「世紀のデッドヒート」

 2020年東京オリンピックが近づいてきました。日本オリンピック委員会(JOC)は、日本の金メダル獲得目標数を「30個」と掲げ、テレビや新聞も「金メダル、 金メダル」と叫ぶものですから、国中が大きな騒ぎに巻き込まれたような感さえあります。

 そんなに熱くなって何事もなければいいが――と思い出すのが、1968(昭和43)年に起こった1964(昭和39)年東京オリンピックのマラソン銅メダリスト・円谷幸吉の自殺です。国民の期待に押しつぶされて自ら死を選んだ、とも取れるからです。

※ ※ ※

 あの時、1964年10月、東京オリンピックのマラソン競技は混戦模様で、最終のトラックに入って猛烈なデットヒートになりました。

 トップを走るエチオピアのアベベ・ビキラ選手に続いて、円谷選手の姿が見えました。6万5000人の大観衆がどよめきました。その後をイギリスのベイジル・ヒートリー選手が追います。

1964年10月、東京五輪のマラソンで、ゴールを目指す円谷選手と、追い上げるヒートリー選手(画像:合田一道)



 聖火の燃える真下のバックストレッチを越え、第3コーナーに差しかかったとき、長身のヒートリーが円谷をじりじり追い上げました。最後の直線に入り、ゴール寸前、円谷は抜かれました。大観衆の絶叫が悲鳴に変わりました。

 円谷には残念な銅メダルでしたが、戦前の1936(昭和11)年のベルリンオリンピック以来のメダルだけに、スタンドから惜しみない拍手が沸き起こりました。

 24歳の円谷はインタビューに答えてこう述べました。

「私にとってこのレースは基礎のようなもの。もっと練習して4年後を目指したい」

 円谷は5000m、1万mが得意で、マラソンを始めたのはわずか7か月前。「基礎のようなもの」はそれを意味していました。始めたばかりのこの好成績は、本人の心を揺さぶったといえるでしょう。

「本当に走れるのか、勝てるのか」という重圧

 自衛官である円谷は栄光に包まれました。「防衛功労賞」が授与され、幹部を養成する自衛隊体育学校に無試験で入学し、勉学のかたわら練習できる環境が与えられました。

 ところが理解のある校長が転出し、後任の校長が赴任すると、自衛隊員としての義務に比重が置かれました。同僚であった女性との結婚を「時期尚早」として破談にされたのもこの時期です。

 残念なことに持病の腰痛が悪化し、アキレス腱(けん)まで傷めます。メキシコオリンピックは2年後に迫っていました。椎間板ヘルニアとアキレス腱の手術を受けましたが良くならず、さらにアキレス腱部分断絶の手術を行いました。

 この頃から円谷の心の中には、「国民の前で約束したのに、走れない」という思いが強まったと判断できます。

 ところがこの術後の経過がよく、期待は膨らみました。円谷は記者たちに「これでメキシコは走れる」と述べています。しかし、勝って金メダルを取る、という重圧は消えません。

 1967(昭和42)年12月30日、仕事納めの後、 円谷は横浜に住む5番めの兄・幸造の運転する乗用車に乗り、実家のある福島県須賀川市に向かいました。

 円谷は男兄弟7人の末っ子で、正月になると兄弟が勢ぞろいします。その年も当然、マラソンの話になりました。

 にぎやかな雰囲気のなかで新年を迎えた円谷の心境は、本当に走れるか、勝てるか、という思いが交錯し、複雑に揺れていたに違いありません。

筆者(合田一道)が撮影した、円谷幸吉の遺書の写真(画像:ULM編集部)



 家で6日間の正月休みを過ごした円谷は、 1968(昭和43)年1月4日夜、5兄の運転する車で東京に戻り、幹部宿舎に入りました。そして7日夜、ベッドの上で自ら命を絶ちました。

「何卒お許し下さい」という遺書を書いて

 隣室のレスリング選手が発見したのは翌々日の午前11時頃。すでに1日半が経過していました。遺体のそばには便箋で走り書きした遺書があり、

「父上様母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒(なにとぞ)お許し下さい」と書かれていました。さらに長文の文面が残されていました。

 父上様母上様、三日とろろ美味(おい)しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。……(以下略)」

 不器用なまでに純粋だった円谷は、国家・国民のために走ろうと考え、それに押しつぶされ、まるでその道しかないように、死に向かい、ひたすら突き進んでいったのでした――。

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