東京「日比谷」は400年前までなんと「漁場」だった 地形図から見る痕跡とは

漁場だった「日比谷入江」とその名をつなぐ神社の風景について、フリーライターの真砂町金助さんが解説します。


かつて海に近い低地だった銀座周辺

 徳川家康が江戸の街を作るにあたって、それまであった神田山(現在の千代田区神田駿河台周辺)を切り崩し、低地を埋め立てたことはよく知られています。

 神田山の頂上は御茶ノ水駅西口前の横断歩道を渡り、JRの線路沿いの道を水道橋駅方面に行った辺りだったと言われています。確かに水道橋駅方面の道は急ですし、近くには階段状の坂もあります。

 銀座から警視庁(千代田区霞が関)の前を通って皇居の周りを四谷方面に向かってみれば、銀座あたりが本当に海に近い低地だったことがわかります。

「江戸前島」「日比谷入江」とは

 江戸時代以前の地形を知るには、国土地理院のウェブサイトで公開されている「デジタル標高地形図」が最適です。この「東京都区部」を見てみましょう。

「デジタル標高地形図」の「東京都区部」。水色部分が「日比谷入江」、右の緑色部分が「江戸前島」」(画像:国土地理院)

 現在の皇居の東側を見ると丸の内から内幸町、日比谷、新橋方面にかけて、海抜の低さを表す「水色」が広がっています。この部分はかつて「日比谷入江」と呼ばれ、海でした。

 一方、東の日本橋、京橋あたりは「緑色」で陸地です。陸地はよく見ると半島状になっており、この部分はかつて「江戸前島」と呼ばれていました。

 地図を見ると、江戸城の東側は土地が低い干潟ばかりという雰囲気です。千葉県の谷津干潟は東京湾に古くからあった干潟を自然保護区にした場所として知られていますが、そのような風景がもっと広くあったわけです。

 確かに自然を生かして守りを固められるわけですから、城としての江戸城は立派です。しかし「これではいけない」とこれを埋め立てて、街を大改造した徳川家康のアイデアには驚きを隠せません。

漁場だった日比谷


【明治初期から平成まで】日比谷周辺の風景はどう変わった?(11枚)

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