駅舎も復元20周年 東急が「田園調布」をこよなく愛する歴史的文脈

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駅舎も復元20周年 東急が「田園調布」をこよなく愛する歴史的文脈

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小川裕夫

フリーランスライター

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東急にとって田園調布駅は沿線駅のひとつに過ぎません。しかし旧駅舎を復元させるなど、並々ならぬ愛情を注いでいます。いったいなぜでしょうか。フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

もともと高級住宅街ではなかった田園調布

 長らく田園調布駅のシンボルとして親しまれてきた駅舎が、役目を終えたのは1990(平成2)年。今から30年前にさかのぼります。

 増える需要に対応するべく、東急は東横線の複々線化を決定。複々線化に際して、東急は線路を地下に移設したのです。そのため、駅舎は不要になり、姿を消しました。

 戦後、多くの芸能人やスポーツ選手、企業経営者などがこぞって家を構えたことから田園調布は高級住宅街の代名詞にもなりました。そして、いつの頃からか富裕層を表す「田園調布に家が建つ」という言葉が流布するようになります。

2000年に復元された田園調布の駅舎(画像:小川裕夫)



 歴史をひもとくと、田園調布は最初から高級住宅街だったわけではありません。東京都と神奈川県の県境に位置する田園調布は、江戸時代はもとより明治期に入っても田畑が広がる農村地帯だったのです。そこには高級住宅街としての一端を見いだすことはできません。

 田園調布が高級住宅街として歩み始めるのは、大正期に入った頃からです。明治期に数々の企業を立ち上げた渋沢栄一が、生涯最後の事業として住宅地の建設に取り組んだことがきっかけでした。

 当初、渋沢は“良質”な住宅地をつくろうと考えていましたが、“高級”な住宅地をつくろうとは考えていませんでした。江戸時代の庶民は基本的に長屋暮らしです。狭い集合住宅は生活環境として決してよいとは言えません。そうした住環境を改善するべく、さまざまな人たちが住宅地の造成に動き出していました。渋沢も住宅地造成に取り組んだひとりです。

渋沢はなぜ阪急総帥に協力を仰いだのか

 渋沢が最初に住宅地造成に取り組んだのは、目黒区・品川区・大田区に広がるエリアでした。洗足駅を中心にした住宅地の造成は当時において画期的な試みで、ガス・電気・上下水道といったインフラが整備されました。洗足田園都市と命名された同エリアに広がる住宅地はたちまち人気になり、現在でも閑静な住宅街として根強い人気を保っています。

 しかし、洗足田園都市は渋沢を満足させるものではなかったようです。理想の住宅地を実現するべく、渋沢は住宅地造成の第2弾に取り掛かります。それが、多摩川台住宅地の造成、現在の田園調布だったのです。

 2度目の挑戦だった渋沢は、息子の秀雄を長期の海外視察に出すなど、念には念を入れて計画を練りました。洗足田園都市の造成では財界人に協力を呼びかけていますが、田園調布では新たに関西で鉄道王として頭角を現していた阪急総帥の小林一三にも協力を要請しました。

田園調布駅前のロータリーに建立されている、渋沢栄一の功績などが記されている碑(画像:小川裕夫)



 関西を拠点にしている小林に、渋沢がわざわざ協力を要請したのには理由があります。当時、一般庶民の多くは農家もしくは町工場や商店を営む、いわゆる個人事業主だったのです。そのため、自宅と職場は同じ家屋を使用しているか、別々でも近接しているのが一般的でした。

 田園調布は戸建て中心の住宅地として造成されているため、販売ターゲットは商店主や町工場の経営者ではありません。都心に通勤する一般のサラリーマンです。

 しかし、田園調布には鉄道がありません。これでは、いくら田園調布を良質な住宅地にしても、会社に通勤するサラリーマンに家を買ってもらうことはかないません。そうしたことから、田園調布に鉄道を敷設し、サラリーマンが会社に通勤できる環境を整える必要がありました。

駅開業から3年、駅名が変更

 渋沢は鉄道会社に出資するなど鉄道に対して理解はありましたが、細かなノウハウまではわかりません。そうした事情から、小林に声をかけたのです。

 しかし、関西を拠点にしていた小林は頻繁に東京へと足を運ぶことができないので、官職を辞して不遇をかこっていた五島慶太を代理人として抜てき。後に東急グループを巨大企業に成長させた五島は、持ち前のリーダーシップで実務を取り仕切りました。

 小林・五島の助力もあり、田園調布は渋沢の理想を体現した住宅地になりました。1922(大正11)年には造成が完了した区画から販売を開始。

 翌年には目黒蒲田電鉄(現・東急電鉄)が調布駅を開業し、このときに中世ヨーロッパの民家をイメージした赤い屋根の駅舎も完成しています。田園調布駅をデザインしたのは、神宮外苑(がいえん)の設計に内務省職員として携わった矢部金太郎です。矢部は建築家としても華々しく活躍していますが、実は田園調布の住民たちの邸宅も多く設計しています。まさに田園調布のデザイナーといえる人物です。

田園調布のイチョウ並木(画像:写真AC)



 ちなみに、田園調布は大田区の町名ですが、渋沢は世田谷区域も開発しました。田園調布駅の北側は世田谷区境ですが、世田谷区側には玉川田園調布という町名があり、その名残をかすかに伝えます。

 順調に滑り出した田園調布でしたが、同年に関東大震災が発生。東京は火の海に包まれました。幸いにも田園調布は家屋の損壊が少なく、火災による延焼もありませんでした。田園調布は地震に強いと言い立てられ、これを機に田園調布へと住まいを移す人も増えました。

 駅開業から3年で、駅名は調布駅から田園調布へ改称します。こうして、田園調布は押しも押されもせぬ高級住宅街へと変貌していきます。

ランドマークにすぎないのになぜ?

 街のシンボルにもなっていた駅舎に危機が訪れたのは、1980年代後半に入ってからです。冒頭でも触れた東横線の複々線化のため、線路は地下へ移設。駅舎は不要になりました。解体予定だった駅舎に対して、近隣住民や鉄道ファンのみならず多方面から惜しむ声があがります。そうした声を受け、保存されることになったのです。

 東横線の地下移設から10年後の2000(平成12)年、駅舎は復元されました。復元された駅舎は駅機能を有していないため、あくまでもランドマークでしかありません。

現在の田園調布駅の様子(画像:写真AC)



 しかし、田園調布駅の駅舎は地域住民に親しまれていただけではなく、運行事業者の東急にとっても会社を大きく貢献させたシンボルでもありました。そうした思いから、東急は1990年の地下移設の際に「お別れ会」を挙行。また、東急は2000年に復元セレモニーを開催しています。

 そして、2020年は復元20周年の節目にあたります。東急は記念乗車券の販売し、駅舎の見学ツアーを実施する予定にしています。

 田園調布駅は、東急にとって沿線にある駅のひとつに過ぎません。しかし東急がその一駅に強い思い入れを抱き、大事にしていることは折々のイベントからもうかがえます。

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