駅舎も復元20周年 東急が「田園調布」をこよなく愛する歴史的文脈
2020年1月19日
知る!TOKYO東急にとって田園調布駅は沿線駅のひとつに過ぎません。しかし旧駅舎を復元させるなど、並々ならぬ愛情を注いでいます。いったいなぜでしょうか。フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。
もともと高級住宅街ではなかった田園調布
長らく田園調布駅のシンボルとして親しまれてきた駅舎が、役目を終えたのは1990(平成2)年。今から30年前にさかのぼります。
増える需要に対応するべく、東急は東横線の複々線化を決定。複々線化に際して、東急は線路を地下に移設したのです。そのため、駅舎は不要になり、姿を消しました。
戦後、多くの芸能人やスポーツ選手、企業経営者などがこぞって家を構えたことから田園調布は高級住宅街の代名詞にもなりました。そして、いつの頃からか富裕層を表す「田園調布に家が建つ」という言葉が流布するようになります。

歴史をひもとくと、田園調布は最初から高級住宅街だったわけではありません。東京都と神奈川県の県境に位置する田園調布は、江戸時代はもとより明治期に入っても田畑が広がる農村地帯だったのです。そこには高級住宅街としての一端を見いだすことはできません。
田園調布が高級住宅街として歩み始めるのは、大正期に入った頃からです。明治期に数々の企業を立ち上げた渋沢栄一が、生涯最後の事業として住宅地の建設に取り組んだことがきっかけでした。
当初、渋沢は“良質”な住宅地をつくろうと考えていましたが、“高級”な住宅地をつくろうとは考えていませんでした。江戸時代の庶民は基本的に長屋暮らしです。狭い集合住宅は生活環境として決してよいとは言えません。そうした住環境を改善するべく、さまざまな人たちが住宅地の造成に動き出していました。渋沢も住宅地造成に取り組んだひとりです。
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