かつては超高層ビル裏に木造民家……「西新宿」は四半世紀でどう変わったのか?

  • 未分類
かつては超高層ビル裏に木造民家……「西新宿」は四半世紀でどう変わったのか?

\ この記事を書いた人 /

野村宏平のプロフィール画像

野村宏平

ライター、ミステリ&特撮研究家

ライターページへ

絶えず大規模な開発工事が行われてきた東京は、昭和、平成、令和と目まぐるしく街の風景を変えてきました。中でも特に著しい変貌を遂げた街のひとつ、西新宿。ライターの野村宏平さんが実際の街を歩き、その歴史をたどります。

大変貌を遂げた西新宿

 超高層ビル街として知られる西新宿は、半世紀以上に渡ってつねに大規模な工事がおこなわれてきたエリアです。東京のなかでもっとも大きく変化したまちのひとつといってもいいでしょう。

 西新宿が激変する大きな契機となったのは、1960(昭和35)年に決定した「新宿副都心計画」でした。都心部への過集中を避けるため西新宿一帯を整備・再開発し、副都心として育成強化するというのが、その骨子です。

1997年(左)と2021年(右)の西新宿6丁目。東京医大病院脇の路地から新宿グリーンタワービルを望む。かつて、ここには2本の路地が並行していたのだが、再開発で1本の道にまとめられた(画像:野村宏平)



 対象区域とされたのは、現在の西新宿1丁目・2丁目・6丁目の全域と3丁目の東半分──東を山手線、西を十二社(じゅうにそう)通り、南を甲州街道、北を青梅街道に囲まれた扇形のエリアでした。

 これに基づき、1丁目にあたる新宿駅西口では地下駐車場建設など駅前広場周辺の整備が始められました。いっぽう、2丁目にあった巨大な淀橋浄水場の機能を東村山へ移し、跡地を造成する工事が始まります。そしてそこに、1971年の京王プラザホテルを皮切りとして、超高層ビルが次々と建設されていったわけです。

 1970年代までの再開発は1丁目と2丁目が中心で、周辺地域にはさほど大きな影響はありませんでした。西新宿といっても、3丁目から8丁目は木造民家やモルタルアパートが密集する住宅地で、路地のあいだに洗濯物がたなびき、夕餉の香りが漂う庶民的な生活空間だったのです。

バブル崩壊が生んだ特異な光景

 しかし1980年代になると、再開発の範囲は周囲にも拡大していきます。2丁目の北に位置する6丁目では、東京医科大学病院が高層ビルに建て替えられ、ヒルトン東京や新宿グリーンタワービルなどの建設が始まりました。

 やがて時代はバブル期に入り、6丁目の全域と青梅街道北側の8丁目および北新宿2丁目の一部では、地上げが進むようになったといいます。これによって、住人たちの立ち退きが始まりました。

 ところが1990年代に入ると、事態が一変します。バブルの崩壊です。

 1991(平成3)年には2丁目に新都庁舎が完成し、甲州街道沿いの3丁目では、かつて西新宿のランドマークでもあったガスタンクが撤去されて、1994年に新宿パークタワーが完工するなど動きがなかったわけではありませんが、多くの場所で工事が停滞するようになりました。その結果、青梅街道沿いの一帯では廃屋と更地が放置されたままになり、ゴーストタウンのような状態になってしまいます。

 それは街にとっては不幸なことだったかもしれませんが、べつの意味で注目を浴びるようにもなりました。

 時代の最先端を象徴する超高層ビルと、時間に忘れ去られたかのような古びた街並みが混在する光景は妙にシュールで、侘(わび)しくもあり美しくもあり、言葉では説明しがたい妖(あや)しい光を放っていました。そんな一種独特の雰囲気が好事家たちの心を惹きつけたのです。

 2000年前後の廃墟ブームとも相まって、雑誌やネットでたびたび取り上げられるようにもなりました。

2021年の西新宿6丁目。新宿セントラルパークシティの前から(画像:野村宏平)



 その後、再開発がふたたび活性化したため、古い建物は取り壊され、6丁目はビルが建ち並ぶまったく新しい街へと変貌を遂げました。現在の6丁目からかつての街並みを想像することは難しいですが、筆者の手元には1997年に撮影した写真が何枚か残っているので、その変化を垣間見ることができます。

消えた「けやき橋通り商店街」

 西新宿6丁目を西に向かい、十二社通りを越えると西新宿5丁目になります。前述したように、「新宿副都心計画」の対象区域は十二社通りの東側なので、ここは当初予定されていた副都心の範囲には含まれていません。そのせいか、このエリアには比較的最近まで、昔ながらの街並みが残っていました。

 十二社通りと西を流れる神田川に架かる相生橋のあいだには、「けやき橋通り商店街」という地域に密着した商店街がありました。2010年代のはじめまで、昔ながらの団子屋さんや昭和感たっぷりのおもちゃ屋さんなどが並び、新宿駅の徒歩圏内とは思えないほどレトロな雰囲気を漂わせていたものです。

2009年のけやき橋通り商店街(画像:野村宏平)



 しかし時代は、そんな状況がいつまでも続くことを許してはくれませんでした。2008(平成20)年に持ち上がった再開発計画により、2013年、商店街は惜しまれつつ道路ごと取り壊されてしまったのです。

 2017年、その真上に完成したのが、日本最高階数となる地上60階建ての超高層タワーマンション、ザ・パークハウス西新宿タワー60です。

 かつての街並みは跡形もなくなってしまいましたが、このビルの入り口には「旧けやき橋通り商店街」の石碑が設置され、往時を偲ぶよすがとなっています。

いまも残る? 350年前の水路

 ところで気になるのは、商店街の名前にもなっていた「けやき橋」の由来です。近くには神田川が流れていますが、同名の橋は見当たりません。では、「けやき橋通り」という名称はどこから出てきたのでしょうか?

 じつは「けやき橋」は、旧商店街の東側、十二社通りの信号のあたりに設けられていた橋で、下を小さな水路が流れていました。この水路は元をたどれば1667(寛文7)年、甲州街道沿いを流れる玉川上水の水を神田上水(神田川)に分ける目的で設けられた助水堀でした。

 明治になって淀橋浄水場の排水路に転用されたのち、現在は暗渠(あんきょ)になっていますが、その痕跡をたどることはそれほど難しくありません。たとえば、十二社通りの東側(西新宿6丁目)にある細長い「けやき児童遊園」やアイタウンプラザのプロムナードが水路の跡地です。

 十二社通りの西側(西新宿5丁目)にも助水堀の跡が残っています。ザ・パークハウス西新宿タワー60の北側でも再開発工事(2023年に地上35階のビルが2棟建つ予定)が進められていますが、その仮囲いと淀橋会館の間に伸びる細い道がそれです。

旧神田上水助水堀の上に造られた「けやき児童遊園」(画像:野村宏平)



 この小道を進んでいくと神田川に突き当たりますが、対岸から見ると、下に排水口が開いているのが確認できます。350年以上前に造られた水路は下水道となって、いまでも活用されているというわけです。

かつては地名だった淀橋

 旧助水堀の排水口から神田川下流に目を向けると、青梅街道が川をまたいでいますが、ここに架かっているのが西新宿を語るうえで欠かすことのできない橋──淀橋です。

 現在の橋は2005(平成17)年に架け替えられたものですが、1924(大正13)年に架けられたときの先代の親柱が流用されています。橋自体の歴史はさらに長く、15世紀にはすでに存在していたといいます。

 古くは「姿見ずの橋」「姿が橋」「面影橋」「大橋」などと呼ばれていたようですが、江戸幕府3代将軍・徳川家光が京都の淀川になぞらえて「淀橋」と名付けたとか、柏木村・中野村・角筈村・本郷村の4村の境界だったので「四所橋」といったのが転訛(てんか)したとか、いくつかの説が伝わっています。

 明治時代の1889(明治22)年、この橋の名にちなんで誕生したのが淀橋町で、現在の西新宿と北新宿一帯を含んでいました。1898年に完成した淀橋浄水場の名前もここから採られたものです。

 1932(昭和7)年、淀橋町は近隣の大久保町、戸塚町、落合町とともに東京市に編入され、淀橋区が成立します。そして1947年、淀橋区は四谷区、牛込区と合併して新宿区になるわけですが、現在の西新宿5丁目全域と2、4、6丁目の一部は1970年まで淀橋という地名でした。あのヨドバシカメラの名称もこの地で設立されたことに由来しています。

神田川に架かる淀橋の親柱(画像:野村宏平)



 現在では地名としての淀橋はなじみが薄くなりましたが、気をつけて探してみれば、淀橋市場や淀橋町会、淀橋第四小学校(かつては淀橋一小から七小までありましたが、統廃合が進み、現在残っているのは四小のみ)など、「淀橋」の名のつくものをいくつか見つけることができるはずです。

昔ながらの趣を残す「庚申通り」

「けやき橋通り商店街」はもはや訪れることが不可能な街になってしまいましたが、西新宿5丁目には味わい深い通りがもうひとつ残っています。

 都営大江戸線の西新宿五丁目駅方面に向かって歩いていくと、羽衣湯というモダンな銭湯があります。ここから横に分かれる曲がりくねった細い道の両側に、数軒の商店が並んでいます。「西新宿みのり商店会」の一部です。

 現在営業している店は青果店や理髪店などほんのわずかだけで、人通りも少なく閑散としていますが、以前は飲食店や菓子店、電器店、洋品店、書店、時計店などさまざまな種類の店が軒を連ねていました。

 通りの名は「庚申通り」といい、道をちょっと外れたところに淀橋庚申堂という小さなお堂が建っています。軒先の木札には「当所の庚申塚は昭和六年の調では三基の石碑は寛文四年(西記一六六二年)等の文字が刻まれてありました」と書かれています。寛文四年は正しくは1664年ですが、ここが歴史ある場所ということは間違いないでしょう。

「庚申通り」の由来となった淀橋庚申堂(画像:野村宏平)



 また、庚申通りの途中には、神田川支流(前述した助水堀とはべつの川)の暗渠があり、ここに架かっていた柳橋の親柱と欄干が残っています。「昭和七年九月廿日成」と刻まれていますから、これも歴史的な建造物のひとつです。

 このあたりは再開発の波を逃れたため、昔ながらの情緒がいまだ残っていて、なんとなくのんびりとした空気が漂っています。道筋がうねうねと蛇行しているため行く手に何があるのか好奇心をそそられ、歩くのが楽しい通りでもあります。

 しかし、このすぐ北側では地上43階のビル建設が予定され、南側の甲州街道沿いの3丁目──新宿パークタワーと東京オペラシティに挟まれたエリアでは、2029年まで大規模な再開発が計画されているようです。

 西新宿の変化はまだまだ終わりそうにありません。

関連記事