90年代の東京で最強だった
自由が丘といえば、東京人だけでなく全国の人々に知られたセレブ地帯です。青山や原宿、吉祥寺とならぶ若い女性の好きな街の定番……だったのは1990年代末くらいまでのこと。今は次第に庶民化が進行しています。
全盛期の自由が丘の「地位」はとても高く、新宿や渋谷はもちろんのこと、青山や原宿よりも神々しさを放っていました。
「新宿や渋谷で遊ぶなんて考えられない。青山とかも人が多くてイヤ。だから本当にお金を持っているなら、自由が丘で遊ぶのがカッコイイ」
90年代には、そのような言葉を実際に口にする人もいました。90年代といえば渋谷という地名自体が、最高におしゃれなブランドのように思われていました。その時代にあって、唯一渋谷を超えるのが自由が丘でした。「自由が丘のセレクトショップで~」と口にできるのは、バブル景気が終わってもなお余韻の中で生きている、限られた人たちだけだったのです。
その時代、自由が丘に集まる若者の定番といえば、男はラルフ・ローレン。女はミス・アシダやマーガレット・ハウエルあたり。「こないだ銀座の英國屋でスーツを仕立てたよ」という会話も当たり前に交わされていました。
自由が丘の前は「自由ヶ丘」だった
このような人たちが渋谷には行かないのは、単に渋谷を見下しているからではありません。「人が多すぎるから」というのがその理由でした。昨今のいきなりSNSを使って100万円を配り始める人たちとは違い、心に余裕があるお金持ちが集まるのが自由が丘だったのです。そういうわけで、自由が丘にはお金持ち向けのさまざまな店が乱立するようになりました。
自由が丘は、東急電鉄の前身である東京横浜電鉄の駅が開通した1927(昭和2)年から始まった街です。それまでの自由が丘は、荏原(えばら)郡碑衾町(ひぶすままち)大字衾字谷畑中(やばたなか)という田園地帯でした。ちなみにその頃の風景は、現在の熊野神社(自由が丘1)の境内からしのぶことができます。
鉄道の開通に併せて開設された駅は、九品仏前駅と命名されました。
そして1929(昭和4)年、新たに目黒蒲田電鉄が現在の大井町線である二子玉川線を開通すると、九品仏の門前に新駅ができたために、九品仏前駅は衾(ふすま)駅に改称することとなりました。
ところが、もっと通りのよい駅名を求める声が強くなったため、近くにあった自由主義教育を掲げる学校「自由ヶ丘学園」にちなんで、自由ヶ丘駅となったのです。このときの住民たちの未来を見通す目は優れていました。もしも衾駅だったら、その後の発展はなかったでしょう。
そして、宅地化が進むとともに周囲の農村部も地名を改めることになり、こちらも1933(昭和8)年に大字自由ヶ丘に。その後1965(昭和40)年に、「自由が丘」に改称されたことで1966年、駅名も併せて自由が丘となりました。
「なんとなくしゃれた、甘いムード」があった60年代
そのような自由が丘が人気の街になったのは、昭和初期に開発された住宅地に文化人が移住するようになってからだと言われています。このとき、洋菓子と喫茶の店「モンブラン」に文化人たちが集まったことで、自由が丘は文化レベルの高い土地になったそうです。
ところが歴史を調べてみると、この話は眉唾物です。というのも、モンブランはもとは現在の学芸大学駅(目黒区鷹番)近くにあり、自由が丘に店を構えたのは終戦間もない1945(昭和20)年10月のことだったからです。つまり、「昭和初期に文化人が集まって」という自由が丘の歴史は大間違いなのです。
しかし、自由が丘がこじゃれた文化人やお金持ちが住みたくなるような土地だったのは確かです。1960(昭和35)年に発表された小説家・武田繁太郎の『自由ヶ丘夫人』にも、
「自由ヶ丘 なんとなくしゃれた、甘いムードのようなものを世のご婦人連に感じさせるこの街」
と表現されています。
この小説は同年に映画化されており、新珠三千代・杉葉子・淡路恵子・安西郷子・千石規子の5人の有閑マダムが織りなす喜劇として描かれています。
ここから、高度経済成長期には「自由が丘 = 小金持ちが邸宅を構える街」というイメージが定着していたことがわかります。田園調布に家が建つほどの富豪ではないが、大企業の管理職など、少しばかりの成功を収めた小金持ちが住む街。すなわち、「自分たちも努力すれば、なんとか住めるかもしれない街」と見られていたのです。
こうして、東京に憧れる地方出身者も集めるようになった自由が丘は、次第に奇妙な街へと変化していきました。
前出の『自由ヶ丘夫人』で描かれたような有閑マダムの買い物している雰囲気が1980年代に入ると、「軽井沢か清里(山梨県)か」のような街に変貌。都会に憧れる若者も集まるため、セレブタウンのはずが老朽化したアパートや銭湯があるという奇妙な街になったのです。
さまざまな階層の住民が集まる自由が丘公園は、昼はセレブな子どもの遊び場、夜になるとさまざまなカップルがいちゃつくスポットとなりました。
いちょう通り → マリ・クレール通り
奇妙なセレブタウンとなった自由が丘で、もっとも奇妙だったのは独特のネーミングセンスです。
気がつけば、商店街でやってる祭りは「女神まつり」。あちこちに「マリ・クレール通り」「ガーベラ通り」「カトレア通り」「メイプル・ストリート」という、どこの国かわからない地名が生まれました。
2020年の現在に聞くと、古めかしさをぬぐえません。考えてみてください。突然電話がかかってきて、相手に居場所を聞かれたとしましょう。
「いま、マリ・クレール通りを歩いているんだけど」
少し恥ずかしいですよね……。
もともと、マリ・クレール通りの名前は「いちょう通り」という平凡なものでした。それを1984(昭和59)年にフランスのマリ・クレール社と同名の女性誌を発行する中央公論社(現・中央公論新社)から承諾を得て、変更したというわけです。
当時、この名称変更はものすごくウケて客足は伸びたといいます。1993(平成5)年には本場のパリ祭を意識して、「マリ・クレール祭り」も始まりました。当時の商店街がいかにノリノリだったかは、資料からもうかがえます。
閑散とした現在
1992(平成4)年には、東京女子大や聖心女子大、津田塾大、フェリス女学院の女子大生などを集めた「マリ・クレールクラブ」も結成され、彼女たちから街の活性化のために提案を集めたこともありました。このときのことは、次のように記されています。
「この中で、フェリス1年のA・Nさん(19)は『従来の商店街のお祭りではなく、雑誌のファッションを取り入れたおしゃれな祭りをしてみたら。またフランス人を中心に国際交流を広げてみては…』と提案。津田塾3年のR・Nさん(21)は『フォーラムのようなものを開いて、例えばパリ祭や祇園祭をテーマに日本人とフランス人との感覚の違いをビデオや写真などを通してリポートしてみたい』」(1992年12月6日 産経新聞・東京朝刊。ULM編集部で実名をイニシャル表記に変更)
このノリは確かに、1990年代の一瞬だけ成功しました。しかし2008(平成20)年のリーマンショックを経て、日本がさらなる低成長の時代になると、加速度的に崩壊が始まりました。
現在、自由が丘は日曜日でもあまり人を見かけず、通りは閑散としています。それでもまだ自由が丘ブランドの影響力なのか、家賃は高めに設定されています。
さすがにこのままではマズいと思ったのか、自由が丘では再開発の計画が始まっています。しかし、これまでのおしゃれな街ではやっていけないのが実情です。これを機にいっそのこと、駅名を「衾駅」に変えてみるのも悪くないかもしれません。