軍都の要衝「市ヶ谷」で今も顔をのぞかせる「戦前」の記憶

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軍都の要衝「市ヶ谷」で今も顔をのぞかせる「戦前」の記憶

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増淵敏之

法政大学大学院政策創造研究科教授

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かつて「帝都」と呼ばれた市ヶ谷。その歴史と史跡について、法政大学大学院教授の増淵敏之さんが解説します。

政治家や文人が数多く住むも、現在は……

 東京はかつて軍都で、当時は「帝都」と呼ばれていましたが、現在東京を歩いていても軍服を見かけることは当然ありません。軍都の要衝だった市ヶ谷においてももちろん同じです。東京は、すっかり「平和」を身にまとった都市となりました。

市ヶ谷の風景(画像:写真AC)



 市ヶ谷は外濠(そとぼり)を挟んで、千代田区と新宿区に分断されています。大まかに分けると千代田区は番町、新宿区は市ヶ谷台となります。

 番町は江戸時代の将軍を直接警護する大番組(おおばんぐみ)と呼ばれる旗本の屋敷が集まっていて、それが地名の由来になっています。明治以降は都心部における高級住宅街になり、政治家や文人が数多く住んだことでも知られ、現在では大邸宅はほとんど姿を消し、高級マンションやオフィスビルが多く見られます。

 市ヶ谷台はかつて陸軍士官学校があり、その後は陸軍省参謀本部、教育総監部、陸軍航空総監部が移転、戦後は自衛隊市ヶ谷駐屯地、市ヶ谷基地を経て、防衛省が移転。長い間、日本の防衛機関や施設が集まる場所になっています。なお、戦前は陸軍士官学校のことを「市ヶ谷台」と呼んだりもしました。

外濠公園はもともと軍用地だった

 ちょうどそのふたつの地区に挟まれている外濠と並行してJR中央線、総武線が走っています。そしてそれに沿う外濠の土手上に、飯田橋から四谷にかけて外濠公園(千代田区五番町)があります。

 ここはもともと軍用地でしたが、1921(大正10)年に法政大学が市ヶ谷に移転。その後、禁を破って土手に入り込む学生が後を絶たず、警察と揉めることもしばしばだったそうです。そこで法政大学は当時の東京市に対し、外濠の土手開放を要請しました。その結果、1927(昭和2)年にまずは牛込橋から新見付橋の間を外濠公園として開放、その後、その範囲を拡大してきました。

「東京市外濠公園」と書かれた石標(画像:増淵敏之)

 新見附橋(新宿区市谷田町)からJR市ヶ谷駅方面に向かうところの入口に、「東京市外濠公園」と書かれた石標が残っています。右から文字が書かれているので、紛れもなく戦前のものでしょう。ほとんどの人が気にも留めずに横を過ぎていきますが、近代的になった界隈をよそに戦前がちらっと顔を覗かせています。

市谷亀岡八幡宮の裏参道を行くと……

 市ヶ谷台にも戦前が残っている場所があります。防衛相の手前に市谷亀岡八幡宮(新宿区市谷八幡町)があります。この神社は太田道灌が江戸城築城の際、西方の守護のために鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祭ったといわれていますが、もともとは市谷御門の内側にありました。鶴岡にちなんで亀岡と呼ばれた神社です。

 しかし江戸時代になってから外濠の誕生によって現在の位置に移転しました。この市谷亀岡八幡宮の裏参道は神社の裏手に防衛省との境界を伝っていますが、出口は駿台予備学校 市谷校舎(同)の裏手にあります。

 ちょうど裏参道を辿っていくと、途中に「陸軍用地」と書かれた石標があります。これもおそらく当時のものなのでしょう。裏参道を歩く人はあまり多くありませんが、時折、自衛隊の隊員が訓練をやっているので、掛け声が響くこともあります。ここにも戦前が顔を覗かせているのです。実際、緊張感を伴う不思議な空間であるともいえましょう。

市ヶ谷台にある「陸軍用地」と書かれた石標(画像:増淵敏之)



 市ヶ谷界隈は、店舗の入れ替えが意外と激しい印象があります。市ヶ谷台寄りの外濠沿いも、居酒屋や喫茶店がコンビニに変わりましたし、ファミレスもドラッグストアに変わっています。

 そういえばスーパーマーケットが大日本印刷の新しいビルに変わり、求人企業のビルも中央大学に、ソニーミュージックのビルも武蔵野美術大学に変わってしまいました。余り変化のないように思われるこの界隈ですら、変化が生じているのです。これが現在の東京なのでしょう。

東郷元帥記念公園の歴史

 番町の方にも戦前が顔を覗かせる場所があります。東郷元帥記念公園(千代田区三番町)です。高低差のあるこの公園は上段の部分がかつての連合艦隊司令長官として知られる東郷平八郎の私邸跡となっています。

 彼は1881(明治14)年に九段の地に移り住み、そして88歳で逝去するまでを当地で過ごしています。この公園はまず1929(昭和4)年に下段の部分が上六公園として開園し、その後、1938(昭和13)年に私邸が寄贈され、東郷元帥記念公園となりました。

 現在は、下段の部分が工事中のため園内を通って下りられませんが、公園の入り口を入ると象徴的なライオン像が鎮座しています。これは東郷邸の玄関にあったものということですが、経緯は詳しくは伝えられていません。また公園内には力石もあります。これらが東郷邸のわずかな名残といえます。

東郷元帥記念公園にあるライオン像(画像:増淵敏之)



 またこの公園に隣接する九段小学校(同)も関東大震災以降に建築された、いわゆる復興小学校です。1926(大正15)年に竣工した校舎が、いわゆる大正時代のモダン建築でした。建設当時は上六小学校といいましたが、パラボラアーチ形の窓などに特色がありました。

 しかし建物の老朽化もあり、2018年にリニューアル工事が完成。外観は既存建築のイメージを残しつつ、新築工事分を設計したものになっています。この小学校の記念室にも東郷平八郎の写真、遺品が展示されています。

 市ヶ谷界隈はこのような細やかに時代を超えた残滓(ざんし)がところどころに見え隠れしていることからも、東京は「時代のレイヤーで構築された都市」で、その底流には膨大な先人の営みが存在しているということを忘れてはいけません。

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