発祥の地は大手町駅から徒歩数分、江戸草創期の「色街」をたどる
2019年7月28日
知る!TOKYO華やかさと陰を併せ持つ「色街」。江戸時代における色街の発祥について、ルポライターの八木澤高明さんが解説します。
江戸草創期の色街だった「鎌倉河岸」
スーツ姿のサラリーマンがひっきりなしに行き交う大手町から、神田方面に歩いていくと日本橋川に架かる鎌倉橋があります。橋の上から川面を眺めると、川に沿って首都高速道路が走っているため、昼間にも関わらず、水は暗く沈んでいます。かつては江戸城を守る堀として機能した日本橋川ですが、今では都市に横たわる巨大な暗渠にすぎません。

この鎌倉橋の袂にある鎌倉河岸(かし)は、東京のはじまりを徳川家康の江戸入府とするならば、吉原ができる以前、江戸草創期の色街のひとつであったのです。
今では色街の雰囲気などどこからも漂ってくることはなく、高層ビルが建ち並ぶ街の一角にすぎません。鎌倉河岸に色街が形成されたのは、家康が江戸城を天下人の城として大規模な普請(ふしん。建築工事)をしたことと、葦の原であった江戸の街を開発したことにあります。
鎌倉河岸は、その際の木材や石材を運び込むための荷揚げ場所でした。この場所に人と物が行き交うと、食い物や酒を売る店が立つようになり、いつしか遊女を置く遊女屋ができたのでした。鎌倉河岸の名前の由来は、資材の主要な供給地であったのが相模や伊豆で、物流を取り仕切っていた鎌倉の商人たちがこの地に居を構えたことからその名がついたといいます。
一方で家康以前、平安時代から鎌倉時代にかけて江戸の街を最初に築いた江戸氏の時代から、鎌倉河岸の地名があったという説があります。
江戸氏が築いた江戸の街は、鎌倉幕府の港、鎌倉や六浦と、さらには墨田川や利根川の水運などを利用して、霞ヶ浦や北浦とも繋がっていたといいます。その拠点となったのが鎌倉河岸なのです。
鎌倉の地名は、東京の神田だけでなく、葛飾区や埼玉の三郷など、水運の要所に点在し、鎌倉時代に遡る物流のネットワークの存在を物語っています。そう考えると、家康は鎌倉時代に築かれた水運や経済の要衝(ようしょう。商業や交通、軍事などで重要な場所)を利用し、江戸の街を大規模にリニューアルしたことになります。
物流の要所は、常に色街と密接に繋がっていることから、江戸時代この地にあった遊女屋の歴史も鎌倉時代あたりに遡るかもしれません。
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