逆境をバネに発展する「新宿」は戦争もバブル崩壊も、そしてコロナ禍さえ乗り越える

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逆境をバネに発展する「新宿」は戦争もバブル崩壊も、そしてコロナ禍さえ乗り越える

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猫柳蓮

フリーライター

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新型コロナウイルスの影響で苦境に立たされた全国の繁華街。そのひとつ東京・新宿の歴史をひも解くと、逆境のたびに発展を遂げてきた特長が見えました。フリーライターの猫柳蓮さんが解説します。

終戦わずか5日後にマーケット誕生

 新型コロナウイルスの影響で大きな打撃を受けた繁華街の行く末が心配されています。そのひとつが、常ににぎわいの絶えなかった東京の副都心・新宿です。

 しかし、あまりに悲観的になる必要はない気がしています。というのも、新宿はもともと苦境の中にあってこそ成長する街だからです。

1948年にできた新宿歌舞伎町。写真は昭和20年代後半の風景(画像:新宿観光振興協会サイト)



 太平洋戦争で完全に焼け野原になった東京。その中で、新宿は恐ろしいスピードで戦後復興を遂げました。

 新宿の復興スピードは、驚くほどに急ピッチでした。1945(昭和20)年8月20日には「光は新宿より」のスローガンを掲げて関東尾津組組長・尾津喜之助(おづ きのすけ)が仕切る闇市・新宿マーケットが誕生します。

 終戦からわずか5日後に闇市が始まったというのが驚きですが、小津が露店の許可を求めて淀橋警察署を訪ねたのは終戦の翌日でした。

 これに応じた署長の安方四郎は、賛同し、バックアップを約束します。尾津が同年の10月には東京露店商同業組合の理事長に任命されているように、警察は地域の顔役にマーケットを仕切らせることで、治安維持を期待していたのです。

 この新宿マーケットがあったのは、東口の現在の中村屋(新宿区新宿3)などがあるところです。当時は、建物疎開や空襲で靖国(やすくに)通り沿いには細長い空き地がありました。

 空き地になっているとはいえ、建物疎開をしただけで所有者はいます。でも、戦後のドサクサというのは恐ろしいもの、警察の公認で不法占拠をしマーケットを開いていたわけです。

 中村屋も終戦とともに店を再開しようとしますが玄関がふさがれている状態になってしまったため、ひとまずは裏手の土地を借りて、営業を再開しました。

終戦8日後には市民が「復興計画」案

 その後1947(昭和22)年になると、治安が安定してきたと見た警察は方針を変えます。尾津が土地返還の交渉を巡って中村屋を恐喝したとの容疑で逮捕。これを機に尾津組は解散し、尾津組商事として正業に転じます。

 ちなみに、淀橋警察署長だった安方は同社の専務に就任しています。

 このほか、新宿駅周辺には南口に約400店が入る和田組マーケット。青梅街道から西口にかけて300店が入る安田組マーケットがありました。

 戦後の新宿で人々がもくろんだのは、もちろん闇市ばかりではありません。

 同じく空襲で焼かれた、靖国通りの北側・角筈1丁目北町の町会長だった鈴木喜兵衛(すずき きへい)は、終戦直後の8月23日に復興計画の趣意書を町内に配布します。

 それは「東向きに芸能施設をなし、道義的繁華街を建設する」というものです。

 住民たちで組織された復興協力会では「芸能広場のあるアミューズメントセンターを作り、さらに近代的商店街を織り交ぜた香り高い都民の慰安の町」を目指すことが決められます。

 具体的には、大劇場・映画館・子ども劇場・演芸場・大衆娯楽館・大ソシアルダンスホール・大宴会場・ホテル・公衆浴場……そして、歌舞伎劇場です。

日本有数の繁華街を擁する新宿(画像:写真AC)



 これが現在の歌舞伎町のはじまりです。

 計画に先んじて1948(昭和23)年には町名が歌舞伎町に改められますが、当時の政府による、インフレ抑制のための臨時建築規制と預金封鎖の金融緊急措置令によって肝心の歌舞伎劇場の建設は頓挫(とんざ)してしまいます。

 当初のもくろみ通りとはいきませんでしたが、こうして歌舞伎町のにぎわいは生まれたのです。

バブル崩壊後も「新宿だけ好景気」

 さて、新宿が苦境から立ち上がったのは終戦直後だけではありません。

 現在の新宿の風景には、バブル景気が終わった後の苦境のさなかで生まれたものが多いことに、お気づきでしょうか。

 例えば、東京都庁が丸の内から新宿に移転し、業務を始めたのは1991(平成3)年4月から。この年の2月を最後に景気は後退に入っており「もしかして、この景気は終わりか……」と人々が思い始めたところへ移転したわけです。

 その後、景気の後退によって都内でも都市開発は失速していくのですが、新宿だけは別でした。

バブル崩壊後に開業した新宿パークタワー(画像:写真AC)



 1994(平成6)年には新宿パークタワー(西新宿3)、1995年には 新宿アイランドタワー(西新宿6)、1996年には東京オペラシティ(西新宿3)と、次々に都市開発が続き「新宿だけ景気がいい」という現象を生み出しました。

 その極めつけとなったのが、1996(平成8)年10月にオープンした南口のタイムズスクエア(渋谷区千駄ヶ谷)です。

 景気が冷え込んでいるといわれた時期にも関わらず、開店日には1万人が並び売り上げが10億円にもなったというから驚きです。

 その後も、南口は長い年月をかけて開発が進み2016年4月にはバスタ新宿(渋谷区千駄ヶ谷)もオープンしました。

 この新たなターミナルの誕生で「新宿というけど、ちょっと代々木みたいな雰囲気」があった駅南口は様変わりしたといえます。

「最悪のタイミング」を味方にする街

 考えてみれば、駅南口には簡易宿泊所が点在する独特の雰囲気がある場所もあったのですが、今では完全に違う街へと変貌(へんぼう)を遂げています。

すっかり新宿駅南口の「顔」となったバスタ新宿(画像:写真AC)



 もともとが敗戦や景気の悪化といった「最悪のタイミング」からスタートするのが得意な新宿。

 歌舞伎町などいわゆる「夜の街」では、引き続き集団感染対策に気を緩めることはできませんが、新型コロナウイルスにも負けずに、また新たな発展を遂げるのではないかと期待しています。

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