新時代を迎えた焼きいも。東京伝統のスイーツが装いを新たによみがえる。

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新時代を迎えた焼きいも。東京伝統のスイーツが装いを新たによみがえる。

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近代食文化研究会

食文化史研究家

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最近、焼きいもが注目を集めるようになっています。さつまいもの品種や焼き方にこだわった高級な焼きいも専門店も登場してきました。この焼きいもブームは、実は三回目のブーム。過去にも二回の焼きいもブームがあったのです。東京の焼きいもの歴史について、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

新世代の高級焼きいも店が登場

 近年、スーパーやコンビニの店頭に、冬になると焼きいもが登場するようになりました。

 店内に漂う甘い香り。その甘さにもかかわらずカロリー控えめで食物繊維たっぷりの焼きいもに、ついつい心のハードルも下がってしまい、一つ二つと手に取ってしまいます。

 そして東京の街には、新世代の高級焼きいも店が登場するようになりました。

 夜は高級クラブの女性が闊歩する銀座7丁目に、壺が並んだ奇妙な店があります。

銀座つぼやきいも(画像:近代食文化研究会)



 この店は焼きいも専門店「銀座つぼやきいも」。インド料理店のタンドール窯のように、炭火を入れた壺でじっくりと焼き上げたつぼやきいもは、ねっとりとしてまるではちみつのような甘さがあります。

銀座つぼやきいも(画像:近代食文化研究会)

 また、豪徳寺には、行列ができる小さな焼きいも専門店「ふじ」があります。若主人が焼く焼きいもは珍しいさつまいもの品種が多く、どれを食べるか迷ってしまいます。

豪徳寺の焼き芋専門店「ふじ」のやきいも(画像:近代食文化研究会)

「学生の羊羹」だった明治時代の焼きいも

 森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」に、次のような一文が登場します。

 “その頃書生の金平糖といった弾豆、書生の羊羹といった焼芋などを食わせられた。”

 主人公が11歳の頃、明治時代初めの頃の学生(書生)は、実によく焼きいもを食べました。当時の焼きいもは非常に安く、貧乏学生でもお腹いっぱい食べることができたのです。

 “当時の学生は一般に貧しかったので、食べ盛りの若者たちにとって欠くことのできない間食も勢い質素なものにならざるを得なかった”(上村行世『戦前学生の食生活事情』1992年刊)

 明治30年代に学生だった生方敏郎によると、当時の金額で2銭もあれば、食べきれないほどの焼きいもを食べることができたのだそうです。

 “甘藷(かんしょ)は俗に書生の羊かんとよばれていたほどで、冬になると焼きいもを盛んに食べた。 しかし安かったから一人で二銭食べる者は豪傑だったろう”(生方敏郎『明治大正見聞史』中公文庫1978年刊)

 なぜ学生たちに焼きいもが重宝されたかというと、その安さもさることながら、当時は外食店が少なく、自炊設備もコンビニもスーパーも弁当店もなく、食事の手段が限られていたという事情があったからです。

 “外へ出ても、食べに行く所と言っては汁粉屋とそば屋位のものだった”(同上『明治大正見聞史』)

 焼きいも店は、寒い時期以外はふかしいもを提供していました。安くて調理いらず、買ってすぐ食べられる炭水化物を、一年中提供していた便利な店が焼きいも店だったのです。 

焼きいも店に行列ができていた明治時代の銀座

 野口孝一『明治の銀座職人話』1983年刊は、銀座在住の職人の明治時代の終わり頃の聞き書きですが、その頃の銀座には焼きいも店が多く存在し、人々は行列をなして買い求めていたそうです。

 “そのころ銀座八丁のなかに芋屋は七軒くらいはあったろうか”

 “午後二時~三時のお八つの頃ともなると、外に列が出来るほどの黒山の客で賑わった。大店の小僧などは岡持を片手に、あるいは籠か風呂敷を持って買いに来た”

 当時の銀座は、商業と家内制手工業の街。そこには住み込みの番頭や小僧、職人が多く働いていました。

 学生街と同じく、銀座においても彼らに食事を提供する外食店などは未発達でした。三食の食事は住み込み先で提供されますが、間食となると学生と同じく、焼きいもが重宝されたのです。

 明治時代末に路面電車網が東京中に整備されると、銀座などの地価の高い場所で住み込みで働いていた人たちは、地価の安い場所から電車で通勤するようになります。

すると店で三食を提供することもなくなり、ミルクホールなどの簡易な飲食店が銀座に隆盛するようになります。次第に焼きいものライバル店が増えていったのです。

>>関連記事:かつて東京に多く存在したミルクホールはなぜ「ミルク」で「ホール」なの?

衰退する焼きいも店

 夏目漱石の『三四郎』では、三四郎が帝国大学(現・東京大学)の近くの店「淀見軒」でカレーライスを食べています。

  淀見軒は実在した洋食店。『食道楽』(1907年6月号)の記事「學生の食道樂」にその様子が描かれていますが、 淀見軒はいつも学生で満杯。近くの天ぷら屋の天丼と同じ値段の10銭のカレーライスは、通常の二倍の量があったそうです。

  淀見軒以外にも、本郷や神田などの学生街には複数の洋食店があり繁盛していました。明治時代中頃の、汁粉屋とそば屋しかなかった頃と比べて、外食店が充実してきたのです。

 大正時代には学生食堂ができました。東京市が安く食事を提供する公衆食堂、民間の大衆食堂など、食事環境は次第に充実していき、焼きいもは学生の食事の地位から遠ざかっていきます。

 昭和時代になると、白十字などの喫茶店チェーンや三好野などの甘味チェーンが店舗網を広げ、ソーダやみつ豆などの新しい甘味をリーズナブルな値段で提供するようになりました。

>>東京発祥・愛され「みつ豆」の出世物語。駄菓子からタカラジェンヌの憧れに至るまで

 森永製菓や明治製菓もチェーン店を展開し、西洋菓子を販売するようになりました。間食という意味でも、焼きいもはその独占的地位を失っていったのです。

石焼きいもと第三次焼きいもブーム

 加太こうじ『江戸のあじ東京の味』(1988年刊)によると、焼いた石の間に焼きいもを並べた「石焼きいも」の行商人が、1935年頃から東京の下町に登場するようになります。

 この石焼きいもの行商は戦後盛んになり、私の記憶では夜の住宅街や繁華街を多くのリアカーが流していました。

 都会人が宵っ張りになるにつれ、夜の食事や間食のニーズが増えていきます。この夜の食事ニーズにいち早く対応したのが、 石焼きいもやラーメンの屋台、おでんの屋台などだったのでしょう。

 しかしながら、レストランやファストフード店の深夜営業、コンビニの普及、インスタント食品や冷凍食品の普及により、夜の食事・間食の選択肢も多様化していきます。一時期は多く見られた石焼きいもの行商人や、ラーメン・おでんの屋台も、最近は数を減らしました。

 そして現在、焼きいもはコンビニやスーパーのヘルシーなおやつとして、あるいは新世代の焼きいも店の高級スイーツとして、三度目の復活を遂げつつあるのです。

銀座つぼやきいも
所在地:東京都中央区銀座7-6-4 GINZA7ビル1階
TEL:03-6263-8773
営業時間:平日12:00~22:00/土日祝12:00~18:00
定休日:夏季休業・年末年始
アクセス:東京メトロ丸ノ内線・銀座線・日比谷線 銀座駅B3出口より徒歩3分
JR・東京メトロ銀座線 新橋駅より徒歩5分
JR・東京メトロ有楽町線 有楽町駅より徒歩6分

焼き芋専門店ふじ
所在地:東京都世田谷区豪徳寺1-7-11
TEL:03-6413-7215
営業時間:10:00~19:00(18:00以降売り切れ次第終了)
定休日:木曜日
アクセス:小田急線 豪徳寺駅より徒歩約5分
東急世田谷線 山下駅より徒歩約4分

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