東京発祥・愛され「みつ豆」の出世物語。駄菓子からタカラジェンヌの憧れに至るまで

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東京発祥・愛され「みつ豆」の出世物語。駄菓子からタカラジェンヌの憧れに至るまで

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食文化史研究家

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東京の伝統的な甘味メニュー、みつ豆。もともとは子供向けの駄菓子として、駄菓子屋や屋台で売られていたものでした。ところが明治時代末以降、みつ豆はトントントンと出世街道を駆け上がり、専門店ができ、タカラジェンヌの憧れとなり、ついには大阪にも進出します。食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

銀座のど真ん中で味わうあんみつ

 明治時代から同じ場所で営業を続ける、銀座の老舗甘味処「若松」。

銀座の老舗甘味処「若松」(画像:近代食文化研究会)



 和光や三越の近くにある銀座コアビル一階。銀座のど真ん中とは思えない、静寂な空間で伝統の甘味をいただけるお店です。

 若松名物といえば、みつ豆に小倉餡をのせたあんみつ。

若松名物あんみつ(画像:近代食文化研究会)

 現在は銀座の老舗で楽しむことができるみつ豆ですが、明治時代の中頃までは、駄菓子屋や路地を渡り歩く振り売り(行商)、あるいは縁日の屋台で売られている、子供向けの駄菓子でした。

子供向けの駄菓子だったみつ豆

 1905(明治38)年生まれの作家・玉川一郎が子供の頃のみつ豆は、路地を渡り歩く行商人から買うものでした。

 “たいていは、じいさんが、屋台を天秤棒でかつぐか、車をつけて、露路から露路へと売って歩いたのが、蜜豆であった。”

 “しかし、これはウチではなかなか買ってはくれなかった。ヒンがワルイというのである。”(玉川一郎『たべもの世相史・東京』毎日新聞社1976年刊)

 みつ豆は下品な食べ物と思われており、親が買ってくれなかったそうです。

 1894年(明治27年)生まれの役者・花柳章太郎によると、駄菓子屋のみつ豆は古新聞紙に入っていたそうです。やはり、上品な食べ物ではなかったようです。

 “昔は、私の子供の頃、駄菓子屋にあつたものだ。古新聞紙を使つた三角の入れ物に、ゑんど豆を入れ、それに蜜をかけたものだつた。一包一錢。それからしばらくして、焼芋屋がやつたやうだ。”(『あまカラ』1955年4月号所収の花柳章太郎「偽むらさき」)

黒みつは駄菓子の象徴

 黒砂糖あるいは廃糖蜜(砂糖を生成する際の副産物)を使用した黒みつは、人工甘味料のない時代は最も安い甘味料であり、駄菓子の主役でした。例えば駄菓子屋に売られていた「みつパン」は、食パンに黒みつを塗ったものです。

 戦前の飴細工の屋台では、徳利のような容器を飴で作り、そこに黒みつを入れて売っていました。米粉の粘土で形態模写をする、飴細工によく似たしんこ細工にも、黒みつをかけることがありました。

明治時代に描かれたしんこ細工の屋台 清水晴風『世渡風俗圖會』刊年不明より(画像:国立国会図書館ウェブサイト)

 もんじゃ焼きの先祖である駄菓子屋の文字焼も、明治時代は小麦粉生地に黒みつをまぜて焼いていました。

明治時代の文字焼 近代食文化研究会『お好み焼きの物語』2019年刊より)

 大正時代になるとお好み焼きの影響を受けて、黒みつのかわりにソースやキャベツが用いられるようになります。これが現在のもんじゃ焼きへと継承されていきます。

芸者衆に愛されて出世するみつ豆

 みつ豆の歴史を研究していた森 銑三によると、江戸時代の資料にはみつ豆は登場しないそうです。どうやらみつ豆は、明治時代の東京で生まれた駄菓子のようです。

 “明治の前半期には、 まだ下等な食物として問題にされなかった。それが日露戦役前後から、まづ花柳界に拡まり、 それから次第にその地位を向上して、今日に到ったといふことになるらしい。 ”(『森銑三著作集 続編 第十三巻』中央公論社1994年刊所収の「閑々子雑記」)

 1906年の岡 鬼太郎『二筋道』に芸者がみつ豆を食べる描写があることから、子供の駄菓子から大人の甘味に出世したきっかけは、芸者衆に愛されたことにあるのではないかと森は考えます。

 役者の花柳章太郎によると、やはりみつ豆は芸者衆の大好物であり、踊りの稽古に来る芸者や見習い(半玉)がよく食べていたそうです。

 こうして大人にも人気となっていったみつ豆は、大正時代には「若松」のような汁粉屋のメニューに加えられ、専門店もできるようになりました。

みつ豆はタカラジェンヌの憧れ

 大正時代の都新聞の記事によると、関西在住の宝塚歌劇団員・原田潤は、東京のみつ豆を食べたいと発言していたそうです。(森銑三『森銑三著作集 続編 第十三巻』1994年刊所収の「大正時代のユーモア」)

 子供の駄菓子であったみつ豆が出世し、ついにはタカラジェンヌの憧れにまでなったのです。

 1931(昭和6)年大阪生まれの新聞記者・ 黒田清によると、彼が子供の頃には既に、東京から大阪へみつ豆が伝播していたようです。

 “私の小学生のころ、秋口から春にかけて、家の近くに、一軒、お好み焼きの屋台が出た。夏にはみつ豆屋に変わった。”(黒田清『そやけど大阪』東方出版1994年刊)

 お好み焼きも、もとはといえば明治時代の東京で生まれた子供向けの駄菓子。明治時代の東京で生まれた二つの子供向け駄菓子は、昭和初期までの30年ほどで大人向けの全国区グルメへと出世していったというわけです。

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銀座若松
所在地:東京都中央区銀座5-8-20 コアビル1F
TEL:03-3571-0349
営業時間:11:00~18:00(当面の間、時短営業)
定休日:月曜・火曜
アクセス:東京メトロ丸ノ内線・銀座線 銀座駅より徒歩1分
東京メトロ日比谷線 東銀座駅より徒歩2分

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