吉原の馬肉店は24時間営業だった!なぜ桜鍋(馬肉のすき焼き)は深川と吉原の名物なのか
東京伝統の馬肉のすき焼き=桜鍋。現在も深川や吉原に老舗がありますが、戦前も桜鍋といえば、深川と吉原の名物でした。なぜ馬肉店は深川と吉原に多かったのでしょうか?そしてなぜ、吉原の馬肉店は24時間営業だったのでしょうか?『串かつの戦前史』に おいて、東京における馬肉食の歴史を描いた食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。戦前の東京人は馬肉好き 明治時代末の道府県の中で、最も多くの馬肉を消費していたのは、意外なことに東京府。 1910(明治43)年に東京で屠畜された馬は10246頭で全国第1位。一方、第2位の長野は5249頭(農商務省農務局編 『第三次畜産統計』1912年刊) 。 人口比(当時の東京府の人口は長野県の約2倍)を考慮に入れたとしても、東京は長野に並ぶ日本一の馬肉消費都市だったのです。 そんな東京人が愛した馬肉料理が、馬肉のすき焼き、通称「桜鍋」。 桜鍋(画像:photoAC) 現在も深川の「みの家」、吉原の「中江」などの老舗で提供している桜鍋ですが、深川と吉原を含む浅草は戦前から馬肉店、通称「けとばし屋」が多かったのです。 なぜ桜鍋が愛されたのか。深川と吉原、それぞれの土地特有の理由がありました。 なぜ深川に馬肉店が多かったのか 東京で馬肉が普及し始めたのは、1887(明治20)年前後のこと。『国民之友』1887(明治20)年12月27日の記事「東京の珍事」に、”牛肉既に乏しくして、馬肉を食ふの東京人あり”と書かれています。 明治維新とともに、文明開化の味として牛鍋(現在のすき焼き)が東京で流行。そのために牛肉が不足し、値段も高騰したので、その代替品として桜鍋が食べられるようになったのです。 その頃、全国で一番牛肉を消費していたのが東京府。 『農商工概況 農業部・水産部』 (農商務省編・1887年刊)に1886(明治19)年の県別屠畜数とそれを一人あたりで割った牛肉量が載っていますが、東京が一人あたり年間6斤(約3.6kg)の牛肉を屠畜から得るのに対し、大阪が3斤、京都と兵庫が2斤。 つまり、東京は一人当たり大阪の2倍、京都や兵庫の3倍の牛肉を消費していたのです。現在は東の豚肉、西の牛肉ですが、当時 は東の牛肉、西の魚だったのです。 牛鍋を多く消費していた関係で、東京では代替品としての桜鍋も多く消費するようになりました。 当時の深川は、労働者がつつましく暮らす土地。牛鍋を頻繁に食べることができるような、金持ちが住む土地ではありませんでした。 そんな人々に安くて良質なタンパク質を提供し、明日への活力源となっていたのが、手頃な値段の桜鍋だったのです。 深川の他にも、本所、東京砲兵工廠(こうしょう)勤務者が住んだ小石川、佐竹が原など、つつましい生活を送る労働者が住む街に、馬肉店は多く存在しました。 吉原の馬肉店は24時間営業東京闇黒記吉原土手馬肉屋(深夜の吉原の馬肉店 村上助三郎『東京闇黒記』(1912年刊)より(画像:国立国会図書館ウェブサイト) この絵は『東京闇黒記(あんこくき)』に描かれた吉原の馬肉店「松林」。広大な座敷に数百人が上がり込み、汗を流しながら一人前3錢の桜鍋を食べています。 時間は深夜0時。吉原の馬肉店は24時間営業で、深夜から午前中にかけても客が絶えませんでした。 なぜこの時間に客が入るのかというと、遊郭として当時有名だった吉原で遊んだ客が帰りに桜鍋を食べるからです。 吉原に行く前に桜鍋を食べる客よりもむしろ、帰りに桜鍋を食べる客が多かったのです。そして両方の客に対応するために、吉原の馬肉店は24時間営業となったのです。 なぜ吉原に馬肉店が多かったのか なにぶん遊郭という特殊な場所ですから、人々が桜鍋を盛んに食べたのは、安さだけが理由ではありませんでした。 吉原に馬肉店が多い理由として、吉原に行く前に「馬力をつける」ために食べたという俗説がありますが、この俗説は戦後、創作されたものであり、事実ではありません。 戦前は、馬肉に強壮効果があるとは思われていませんでした。そもそも「馬力をつける」という言葉そのものが、存在しなかったのです。 また吉原に行く前よりも、吉原帰りの客の方が多かったという事実は、吉原に行く前に「馬力をつける」目的で食べていたわけではないことを意味します。 ”『さくら』はセクシヤルな病氣の解毒藥の代用物だと思はれ、六〇六號(ごう)(著者注 性病薬のこと)が普及しない時代には、そんな意味で盛んに食べられたらしいのだ” ”それが證據(しょうこ)には、吉原堤とか、品川宿とか洲崎とか等々には大分見えたのだ”(井東憲『食道楽 1929年1月号』所収の「大衆食物篇その二 さくらとおでん」) 吉原に馬肉店が多い理由。それは馬肉に梅毒感染を防ぐ効果があると思われていたからでした。 そして深川に馬肉店が多かったもう一つの理由は、洲崎遊郭が存在したからです。 ペニシリンと自動車の普及で衰退した馬肉店 ”馬はけとばす、病毒も蹴飛すといい無邪気ともいえる迷信だ。従って廓(くるわ)への往き返り(原文ママ)、特に帰りは馬肉の鍋(ふつう桜鍋といった)をつつきながら、一杯かたむけて毒気を払ったものである。”(灘千造『灘千造シナリオ作品集』1986年刊所収「随筆・私の浅草」) 吉原に行く前ではなく、吉原帰りに桜鍋を食べる客が多かった理由は、コトに及ぶ事が、確定する前と確定した後の行動の差でしょう。 戦後抗生物質ペニシリンが普及し、梅毒が治療できるようになると、吉原や洲崎周辺の馬肉店は衰退していきました。 馬肉店が衰退したもう一つの理由が、トラクターやトラックの普及です。 なぜ馬肉が安く提供できたのかというと、農耕馬や輸送用の馬車に使えなくなった老馬を安く引き取り、解体していたからです。 トラクターやトラックが普及すると、安い馬肉の仕入れができなくなります。その結果、桜鍋の値段は上昇していきました。 現在の桜鍋は、食肉用に飼育された上質な馬肉を使用した、高級料理となっています。 労働者の安価な活力源から、伝統を引き継ぐ希少な高級グルメへ。その姿を変えながら、東京の桜鍋は愛され続けているのです。 参考:『串かつの戦前史』
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