今なお聞こえる120年前の鼓動 中央区に佇む都内最古の道路橋「南高橋」をご存じか
かつて「霊岸島」と呼ばれた新川 中央区新川は、江戸時代に霊岸島(れいがんじま)と呼ばれていました。元々は江戸中島と呼ばれた隅田川の中州で、徳川家康が江戸をつくる際、堀の掘削が行われて、北が箱崎島(現・中央区日本橋箱崎町)、霊岸島に分かれました。 新川は現在、隅田川や日本橋川、亀島川によって四方を囲まれていますが、江戸時代はもっと掘割(地面を掘ってつくった水路)が多く、地名の由来になっている新川や、地域にあった福井藩の屋敷を囲む越前堀などがありました。 そんな新川ですが、かつてはもっと島の雰囲気があったわけです。 下町テイスト漂うエリアにかかる古い橋 町名としての新川は、北を流れる日本橋川を挟んで、現在の日本橋箱崎町側も含んでいましたが、1971(昭和46)年に住居表示が実施された際、霊岸島・越前堀の地名を廃して、現在の地域が新川にまとめられました。 現在は立派なビルが建つオフィス街かと思いきや、買い物客でにぎわう庶民的なスーパーマーケットがあったり、八百屋があったりと混在するエリアとなっています。大都会のイメージが根強い中央区ですが、この辺りを歩いていると、元々は下町だったと実感します。 中央区新川にある南高橋(画像:犬神瞳子) 新川と外部をつなぐ橋のなかに、南西の同区湊(みなと)に向かう南高橋(みなみたかばし)があります。 南高橋は裏道的な要素が強いため、地元以外の人たちにははっきり言ってあまり知られていない橋です。近くを通る、交通量が多い鍛冶橋通りや八重洲通りと比べても目立たない存在です。 でも、そのデザインを一度見たら驚く人は多いはず。なぜなら、いかにも古めかしい鉄製のトラス橋だからです。ちなみにトラス橋とは、橋の本体がトラス(部材を三角形に組み合わせていく構造)から成る橋を指します。 橋自体が完成したのは1932(昭和7)年ですが、橋の構造物は1904(明治37)年のもの。実に100年以上の歴史を持ち、現在、道路橋として使われている橋では都内最古となります。 きっかけは関東大震災きっかけは関東大震災 橋と構造物の完成時期が大幅に違うのは、南高橋が再利用によって架橋されたからです。 中央区東日本橋にある両国橋(画像:犬神瞳子) 南高橋はもともと、隅田川に架かる両国橋の一部でした。隅田川は明治時代に、両国橋同様、永代橋や厩(うまや)橋、新大橋など、多くの架橋が行われました。これらの橋はいずれも設計者が明らかですが、両国橋だけは誰が設計したのか知られることなく現代に至っています。 この橋が両国橋から南高橋へと姿を変えたのは、1923(大正12)年に発生した関東大震災が関係しています。関東大震災後の復興事業として、当時、橋のなかったこのエリアに新たな橋が計画されたのです。 時を同じくして、両国橋の再利用も決まります。当時は東京の各所で復興事業が行われていたため、鉄そのものが貴重で、橋の再利用はよく行われていました。 研究によれば、当初の復興計画に南高橋は入っていませんでした。着工は1930(昭和5)年の復興事業終了後だったことから、予算がなかったため再利用が決まったようです(伊東孝「東京の橋 下町の誌上橋めぐり 南高橋」『DOBOKU技士会東京』第46号)。 こう聞くと、被災した橋を再利用したように聞こえますが、実際は床の木の板が焼けるなどの被害があったものの、大きな損傷はなかったようです。なお、このときの両国橋の橋名板は東京都復興記念館(墨田区横網)に保存されています。 両国橋は元々3連トラスで、状態の良かった中央部分の1連が利用されました。また、道路の幅も両国橋より狭い(両国橋の3分の1程度)ため、部材は再利用しつつも、新たな橋をつくったと言えるでしょう。 3度にわたって行われた補修工事3度にわたって行われた補修工事 こうして、南高橋は明治の鉄橋を現代に伝えることとなったのです。 橋は、これまでに3度にわたって床の補修や橋台の補強が行われています。それで現在も使用に耐えているのですから、明治の技術力の高さが伺えます。 3度の補修のうち、もっとも大規模なものは1989(平成元)年に行われ、このときは約1億4000万円をかけて、橋をシルバーペイントで舗装。歩道部分をタイル貼りにする美化も行われました。 元になったイメージはかつての両国橋で、一部の装飾は簡略化されたものの、明治の姿により近くなって現在に伝わっています。 両国橋近くにある案内版(画像:犬神瞳子) 現在、橋の脇には歴史を解説する案内版や小さなベンチなどが設置され、橋の歴史を知ることができます。隅田川と接続する箇所に水門があるため、場所を選ばないと美しい情景を望めませんが、かつての「水の都」たる東京を思い浮かぶことができます。
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