【追悼】偉大なる名将・野村克也さんが生前愛した店を振り返る
自分の道を究めた選手 ヤクルトスワローズや阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務めた野村克也さんの訃報が届いたのは、2020年2月11日(火)のことでした。 どうして彼は監督を退いても、「野村監督」と呼ばれるのでしょうか。それはおそらく、彼の人間的な魅力のおかげでしょう。 南海ホークス時代の野村さんのバッティング。1967年7月撮影(画像:時事) 野村さんは南海ホークスで4番バッター・キャッチャーという重責を背負いながら、戦後初の三冠王に輝き、選手としても大きな足跡を残しました。名選手であり、名監督でもありました。 筆者(増淵敏之。法政大学大学院教授)は野球ファンの端くれなので、大きなショックを受けました。小学生の頃、筆者は東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)のファンだったのですが、友人に南海ファンがいたこともあり、野村さんの話はいつも耳にしていました。 テスト入団で契約金はなく、ましてや出身校も甲子園の常連ではありません。通算600本塁打を放った後、「王や長嶋がひまわりなら、俺はひっそりと日本海に咲く月見草」と表現したように、スポットライトが当たらなかった当時のパリーグで、自分の道を究めた選手でもありました。 他のチームの選手に慕われる器の広い人間 多くの関係者がマスコミを通じてお悔やみの言葉を述べていましたが、もっとも印象に残ったのはシカゴ・カブスのダルビッシュ有のコメントでした。 彼が手術後に思うようにいかなかったとき、野村さんが平成のベストナインに彼を選んだことについて感謝している旨を述べつつ、「僕が一度プレーしてみたかった監督が2人いる。そのひとりが野村さん。いつか絶対にやってみたかった」と続けました。清原和博も同じことを述べていました。 キャッチャーとボールのイメージ(画像:写真AC) 筆者は、感動を覚えずにはいられませんでした。古田敦也、田中将大など直接の教え子たちも氏に対する愛情に満ちたコメントを述べていましたが、やはり他のチームにいた選手に慕われるというのは、相当な人間の器というか、力を持った人ではないと難しいかと思います。 彼がこの世を去ってしまったのは、一野球ファンとして本当に残念でなりません。まだまだ、野球界に助言をしてほしかったです。 東京にある野村さんが愛した店の数々東京にある野村さんが愛した店の数々 最愛の妻だった沙知代夫人と出会ったのは、1970(昭和45)年です。 場所は野村さんの宿泊先だった原宿に近い、行きつけの中華料理屋だったといいます。おそらく「南国酒家」(渋谷区神宮前)でしょうか。いろいろ調べてみましたが、具体的な店の名前にはたどり着けませんでした。 野村さんが愛した市ヶ谷のすし屋「鮨太鼓」の外観(画像:(C)Google) そのほかにも行きつけの店は、東京に幾つかあったようです。市ヶ谷のすし屋「鮨太鼓」(新宿区市谷砂土原町)、上野の「翠鳳 上野本店」(台東区東上野)など。また水道橋の「後楽園飯店」(文京区後楽)では、予約しなければ食べられない「野村そば」なるものもあるようです。 ホテルニューオータニを愛した野村さん 監督を辞して解説者として活躍していた野村さんですが、晩年はホテルニューオータニ(千代田区紀尾井町)で夫人と夕食を取るのが常だったそうです。 ホテルニューオータニは、元大相撲力士で実業家の大谷米太郎が1963(昭和38)に創業した、帝国ホテル(千代田区内幸町)、ホテルオークラ東京(現・ジ・オークラ・トーキョー。港区虎ノ門)と並ぶ日本を代表するホテルのひとつとして知られています。 ホテルニューオータニと言えば、作家の森村誠一が作家になる前に勤めていたことは有名な話です。彼はホテルニューオータニ以前に勤めていた都市センターホテル(同区平河町)時代に、数多くの作家や著名人に会ったといいます。 千代田区紀尾井町にある「ホテルニューオータニ」の外観(画像:(C)Google) ホテルニューオータニは彼の代表作『人間の証明』(1976年)の舞台になり、最上部の「回る展望台レストラン」のシルエットが物語の重要な鍵となっています。 ちなみに筆者は学生時代、ホテルオークラ東京でボーイのアルバイトをやっており、世界的指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン、ミュージシャンのジョン・レノン、ハリウッドスターのスティーブ・マックイーン、数多くの作家を見かけた記憶があります。 朝鮮特需で財を成した大谷米太郎朝鮮特需で財を成した大谷米太郎 前述の大谷米太郎ですが、朝鮮戦争(1950~1953年)の特需で財を成しました。同じく実業家の星一(ほし はじめ。SF作家の星新一の父)の星製薬を傘下に収め、工場跡地にTOCビルを建設しました。 星薬科大学(品川区荏原)はこの流れの中にある大学です。この辺りの詳細は1991(平成3)年の荒俣宏『大東亜科学綺譚』に詳しく描かれています。つまりホテルニューオータニは、戦後の高度経済成長を背景にして創立されたものです。 野村さん行きつけのコーヒーハウスとは さて、筆者も久しぶりにホテルニューオータニに足を向けてみました。 野村さんはこのホテルのコーヒーハウスで夫人と待ち合わせ、食事をするか、またホテル内の他の飲食店に向かったといいます。このコーヒーハウスというのは、「SATSUKI」のことでしょう。 カレーライスがおいしい店ですが、価格は2800円とやや高めに設定されています。広いフロアの奥の席が夫妻のいつもの席だったそうで、そのような縁があったためか、沙知代夫人のお別れの会もホテルニューオータニで行われました。 ホテルニューオータニ内にある「SATSUKI」(画像:増淵敏之) 筆者は野村さん本人に会ったことはありませんが、出版された本は何冊も読みましたし、彼の言動はメディアを通じてチェックしていました。「ひとを育てる」という点で、学ぶべきことが大きかったような気がします。 ホテルニューオータニを後にした筆者は、東京ドームに併設している「野球殿堂博物館」(文京区後楽)に足を運びました。野球殿堂入りした野村さんのレリーフには、生花が飾られていました。 これからの野球界は、彼が育てた選手たちが作っていくでしょう。「野村イズム」は死なず――といったところでしょうか。
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