かつての文系デートスポット? 戸越にあった「国文学研究資料館」を振り返る
かつて品川区戸越に大学共同利用機関の国文学研究資料館がありました。当時の思い出について、ルポライターの昼間たかしさんが振り返ります。戸越銀座商店街の情緒ある風景 下町といえば江戸時代から栄えた城東エリアが注目されますが、品川区などの城南の下町はそれに比べて見どころに欠けていると言わざるをえません。 国文学研究資料館の跡地にがある公園「文庫の森」(画像:写真AC) 江戸時代からの伝統が続く城東に対し、城南が「町」としての形を成してきたのは明治時代になってから。工場が建ち並ぶにつれて人口が増え、関東大震災後はそれまでの人口密集地帯だった城東から人が移り住み、田畑だった地域は住宅地へと姿を変えてました。ようするに「情緒にイマイチ欠ける新興住宅地」だったわけです。しかし開発が進んでから百年あまり。近年では新たな情緒が評価されつつあります。 そのなかでも、観光客でにぎわうスポットが戸越銀座商店街(品川区戸越)です。1kmあまりにわたって続く商店街は、地域にとって古くからの自慢です。平成になっても長らく昭和の風景が続く地域でした。 そんな商店街が観光で賑わうようになったのは「食べ歩き」によってです。もともと、個人商店の多い商店街では、夕方になると店先に惣菜やコロッケなどが並ぶのが日常風景でした。もともと家で晩御飯のおかずにするものでしたが、いつの間にかその場で食べる人が増えてきました。最近はそうした客層をターゲットにした「戸越銀座コロッケ」なども誕生しています。 もともとは三井財閥の資料の保存施設もともとは三井財閥の資料の保存施設「食べ歩き」という文化は決して新しいものではなく、その言葉も「店を回りながらさまざまなものを食べる」という意味ではありませんでした。 そうした意味が含まれるようになったのは、2010年代になってから。筆者は40代ですが、当時の小学校は「歩きながら食べることはいけない」と教えていたのを覚えています。筆者の親世代になると、立ち食いそば屋や牛丼についても「あんなところで食べているのを人に見られたら恥ずかしい」という価値観を持っている人がいます。今となっては隔世の感があります。 少し話が横道にそれましたが、ここからが本題。にぎわう戸越銀座に比べると、まったく静かなのが大井町線の戸越公園駅周辺です。2020年東京オリンピックを控えて都内各地は再開発ラッシュが続いてますが、この駅周辺はそんなラッシュとは無縁なままの昭和です。前回の東京オリンピック(1964年)から変わっていないんじゃないかという風景すらあります。 そんな街の駅名にもなっている戸越公園は、熊本藩主・細川家の下屋敷の庭園を使った公園として知られています。立派な庭園ですが桜はほとんどなく、花見の季節に人で賑わうことはないのであまりメジャーではありません。その静けさに風格を感じますが、かつて公園に隣接し、その風格を一段と高める施設がありました。国文学研究資料館です。 この資料館は、戦後間もなく当時の文部省の古文書収集事業を行う施設として始まりました。この場所には、もともと三井財閥の資料を保存する「三井文庫」がありました。幾度かの建て替えを経て、三井文庫時代の建造物で現存しているのは収蔵庫(1922年建設)だけになりました。昭和後期に建設された建物の方は、平成に入ると古ぼけた懐かしさがあった記憶があります。 「真の文系デート」を目撃できた場所「真の文系デート」を目撃できた場所 国文学研究資料館は、文系の大学生にとってなじみ深い施設でした。国文学を学んでいる学生はもちろんのこと、博物館学芸員を目指している人の実習の場として指定されることもありました。筆者が博物館学芸員を取得する際も、授業がここで行われました。 立川市緑町に移転した、現在の国文学研究資料館(画像:写真AC) 古文書を収集している施設のため、当然、実習は本物を使って行われます。もちろん貴重な資料ではなく、素人が触って構わない程度のものを使います。それまで土器や石器は触ったことがありましたが、手にするのは古ぼけた紙です。いくら実習とはいえ、破れては大変だとビクビクしたものです。 もっとも苦労したのは巻物の取り扱いです。巻物はクルクルと巻きながら読んだり片付けたりするのですが、端がきちんと合うように巻くのは初見では絶対にできません。そんな実習が行われている施設の窓からは、戸越公園の木々の緑が美しく広がっていました。 自分には縁がありませんでしたが、同じ学問を学んでいる男女は一緒に資料を見学しに訪れ、戸越公園でお弁当という「真の文系デート」を楽しんでいたといいます。思い出しても羨ましい限りです。 そんな施設も人間文化研究機構(港区虎ノ門)に移管されたのち、2007(平成19)年に立川市緑町へと移転。跡地は品川区によって公園「文庫の森」となりました。先日訪れて驚いたのは、敷地面積が広くなかったということです。日本でも有数の古文書を所有する施設が、こんな限られた土地に立っていたのかと思わず驚いてしまいました。
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