新宿・飯田橋駅近くに、誰も住んでいないエリアがまだあった!

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新宿・飯田橋駅近くに、誰も住んでいないエリアがまだあった!

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真砂町金助

フリーライター

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東京都の区部中央に位置する新宿区。そんな新宿区に人がひとりも住んでいないエリアがあるのをご存じでしょうか。その謎について、フリーライターの真砂町金助さんが解説します。

外堀にせり出すように建設されたビル

 約33万人の人口を抱える新宿区ですが、そのなかにはなぜか誰も住んでいないエリアがあります。住所で言うと「新宿区神楽河岸(かぐらがし)」。大人の文化が香る街・神楽坂に近く、「河岸」という名前も素敵です。

 周辺にあるのは、1982(昭和57)年完成の総合ショッピングセンター・飯田橋ラムラなどが入るふたつのビル。ビルの片方は住居棟のはずですが、人口はゼロ。なぜなのでしょうか。

 先に種明かしをすると、それは住居棟の住所は新宿区神楽河岸ではなく、隣接する「千代田区飯田橋4丁目」だから。しかもこのビルはよく見ると、外堀にせり出すように建設されているのです。

 早速調べてみると、この土地だけ外堀を埋め立ててビルが建設されていたことがわかりました。歴史的な景観である外堀をここだけ埋め立ててビルにする――その背景にはどんな物語があるのでしょうか。

堀の周囲のかつての光景

 外堀は江戸城築城の過程でできたもので、私財の運搬用だけでなく水運にも使われていました。

 先ほどの神楽河岸も、もとは「飯田濠(いいだぼり)」に面した神楽河岸という名前の揚場(荷揚げをする場所)があったところでした。

飯田橋ラムラ周辺(画像:真砂町金助)



 しかし戦後になって、東京では水運は過去のものとなっていきました。多くの水路が埋め立てられ、残された飯田濠は下水の流れ込むドブ川のようになっていました。高度成長期には堀の汚濁はすさまじく、常に悪臭を放つ公害の発生点になっていたのです。

 堀の周囲のわずかな土地には民家や倉庫などが並んでいましたが、背後が堀であることから周囲の発展から取り残されたような場所になっていたといいます。

 今では考えられませんが、飯田橋交差点付近にわずかに店舗がある以外は何もない、寂れたエリアだったのです。

人口ゼロになった理由

 水運が使われなくなって不要になった堀を埋め立ててほしいという住民の運動は、昭和30年代初頭から始まっていました。この動きが本格化したのは1969(昭和44)年に都市再開発法が制定されてからのことです。

 1970年には新宿区の住民700人あまりが、区に対して

「飯田濠が汚濁されて衛生上、美観上、ゆるがせ(おろそか)にできない状態にあるので、これを埋め立てて公園にしてほしい」

という請願を東京都議会に提出しています。この請願が採択されたことで、飯田濠の埋め立てによる再開発事業が始まります。

 当時、東京都建設局では再開発事業を行うための市街地を選定していました。そんなこともあり、飯田橋地区は、西大久保・赤羽西とともに適地として選ばれます。

 このときに前述の新宿区と千代田区の境界を変更したために、神楽河岸が人口ゼロになったのです。

 従来は飯田濠の上が区境になっていましたが、建物をつくるにあたって、ひとつの建物がふたつの区にまたがっていると行政上支障があるとの意見が出たため、オフィス棟側の予定地を新宿区、住居棟側を千代田区にほぼ分割することになりました。

ステンドグラスのあるホール(画像:真砂町金助)



 飯田橋ラムラには現在、ステンドグラスで飾られたエントランスホールがありますが、ただのエントランスではなく「区境ホール」という名称も付いていて、その名の通り、区境の役目を果たしています。もちろん、区をまたぐホールは全国でもほかに聞いたことがありません。

 また、普段目にすることはできませんが、もうひとつ珍しい施設があります。建物の外の外濠通り沿いにある遊歩道の小川がそれです。この小川は飯田濠の雰囲気を残そうと考案されたものですが、小川がつくられたのは暗渠の上。川底の下にはさらに流れがあるという二階建ての川となっているのです。

洪水発生の懸念もあった

 こうして実施された再開発ですが、異議を唱える声にも直面しています。

 再開発完了後に東京都建設局再開発部が発行した『飯田橋夢あたらし 飯田橋地区市街地再開発事業誌』(東京都建設局再開発部、1996年)には、関係者による非常に生々しい座談会が収録されています。

 これによれば、再開発事業で必然的に起きる再開発後の補償や移転先の問題のみならず、埋め立てで洪水が発生することへの懸念から大きな反対運動があったことが記されています。

暗渠の上に作られた小川(画像:真砂町金助)



 再開発計画が持ち上がった当時、まだ神田川は改修途中で、大雨が降るとよく水があふれる川でした。そんなところで、埋め立てをして暗渠化すれば、必然的に洪水が起きてしまうという懸念があったようです。

 この座談会、すべての事業が終わった上での話とはいえ、当時の都の担当者がそれを公にしてよいのかと思うような、ぶっちゃけた話を繰り広げています。

 実は、単なる事業の概要がわかる資料かと思って所蔵している図書館を見つけて閲覧したのですが、とんでもない歴史を記録した資料になっています。再開発を通じて繰り広げられた人間模様。それが歴史として記録されているのは貴重です。

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