東京の「北の玄関口」上野駅は、昭和の悲喜こもごもが交差する哀愁漂う場所

  • ライフ
  • 上野駅
東京の「北の玄関口」上野駅は、昭和の悲喜こもごもが交差する哀愁漂う場所

\ この記事を書いた人 /

日野京子のプロフィール画像

日野京子

エデュケーショナルライター

ライターページへ

10月14日は鉄道の日です。この日に新橋‐横浜間で初めて鉄道が開通してから、今年は150年目となります。都内の数ある駅の中でも、「北の玄関口」として有名な上野駅。昭和30年代に多くの地方の若者が故郷を離れ、不安と夢を抱きつつ東京での第一歩を踏み出した上野駅について、エデュケーショナルライターの日野京子さんが解説します。

 10月14日は新橋駅から横浜駅で初めて鉄道が開通したことから、「鉄道の日」に定められています。とくに、今年は新橋―横浜間が開通して150年目となる節目の年ということもあり、各地で鉄道に関わるイベントが行われています。東京都内の数ある駅の中でも、上野駅は「北の玄関口」として知られています。

上野駅(画像:photoAC)



 東京を代表する花見の名所である上野公園。上野動物園や国立科学博物館、国立西洋美術館そして国立東京博物館など大規模な施設がある人気のスポットです。

 華やかな雰囲気も持ちつつ、浅草地区とも隣接し下町らしさも感じます。そんな上野駅はアジア初の地下鉄路線(上野―浅草間)誕生の地でもあります。駅としての長い歴史を持つ上野駅を語る上で忘れていけないのが「集団就職列車」です。

 東京に就職する東北地方の中学や高校を卒業したばかりの若者が、団体列車に揺られながら上京する様子は、戦後の高度経済成長期の一ページとしてよく語られています。

 今回は、昭和30年代に多くの地方の若者が故郷を離れ、不安と夢を抱きつつ東京での第一歩を踏み出した上野駅を紹介していきます。

上野駅は日本初の私鉄が作った

上野駅ホームにある啄木の歌碑碑(画像:photoAC)

 上野駅の歴史は、新橋―横浜間の開通から11年後の1883(明治16)年に始まりました。国内初の民間鉄道会社である「日本鉄道株式会社」が、北関東や東北方面の鉄道整備を進めるために、作られました。当初から「北の玄関口」という役割を担っていたのです。

 岩手県出身の石川啄木が詠んだ、「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにいく」の停車場は上野駅だと言われ、15番線ホームに記念の碑があります。

 古い歴史を誇る駅でも昨今は、駅ビルといった複合施設を含んだ開発が当たり前のように行われています。上野駅も例外ではなく、「アトレ上野」がありさまざまなテナントがひしめき合う現代的な駅といった印象を受けます。

 しかし、広小路口を出ると見える1932(昭和7)年竣工の二代目駅舎は昭和から時間が止まったかと思うほど重厚感あふれる駅舎です。

 初代駅舎は関東大震災により焼失しましたが、昭和初期に完成した駅舎は激しい戦火もくぐり抜けた、全国的にも貴重な戦前の駅舎を今に伝える貴重な建造物です。

 完成当時は現在のように周囲にはビルが皆無であったため、より存在感のある北の玄関口であったことは想像に難くありません。

高度経済成長期と都会と地方の進学率

旧国鉄鉄道車内 (イメージ画像:photoAC)

 戦後の歴史を学ぶときに必ず目にする「集団就職」という言葉は、地方の農家や漁村の長男以外の男子学生や、地元に働き口のない女子学生が修学旅行さながらに団体で列車に乗り込み、東京や名古屋、大阪といった人手の足りない大都市に就職するありさまを表現しています。

 集団就職列車は正式な名称ではなく通称で、臨時列車扱いでした。現在のように、事前に就職先を複数リストアップし、応募し面接を受けて合否を待つというものではありません。地元にいる時に就職先が決まり、列車に乗り、駅に到着して職場に向かい、ようやくどんな会社なのかが分かるというまさに運試しのような就職でした。

 大都市圏では戦後復興ということもあり建築現場や工場で働く人材が足りませんでしたが、人材不足のその他の原因として、そもそも都会と地方の進学率の差が顕著だったことがあります。

 1950年度当時の文部省が行った「学校調査」をみても、東京で中学卒業後に就職した生徒は25.6%(夜間学校通学者を含む)、夜間学校に通わずに就職したのは卒業生全体の18.1%でした。

 一方、中学卒業者の就職率の全国平均は45.2%(夜間学校通学者を含む)と歴然とした差があります。

 東京の子は高校への進学者が多く、増え続ける仕事を任せられる人材が全く足りないなか、白羽の矢が立ったのが地方の若者だったのです。

 集団就職列車の運行の始まりは諸説ありますが、1954(昭和29)年に青森駅から上野駅を走った臨時夜行列車が戦後の第一号とされています。高度経済成長期は翌年の1955年から始まったため、地方の若者が東京をはじめとする大都市に人手として引く手あまただったことがうかがえます。

現実の過酷さと金の卵と呼ばれるギャップ

金の卵と呼ばれても (イメージ画像:photoAC)

 昭和30年代に地方から上京し就職する若者たちは「金の卵」ともてはやされました。1964(昭和39)年には流行語大賞にもなりました。

 誰もが都会での成功を夢見た時代ですが、現実には過酷な労働や賃金の低さなど厳しい生活を強いられることが多く「金の卵」と呼ばれるほど待遇が良いものではありませんでした。

 集団就職列車に揺られながら故郷を離れ、見知らぬ都会で働く若者の姿を歌った「あゝ上野駅」は、彼ら彼女たちの心情を表現し大ヒット曲になりました。

 上野駅開業120年の節目に当たる2003(平成15)年には、歌碑が広小路広場下に設置され、今では観光スポットにもなっています。また、常磐線や宇都宮線、高崎線として使用されている16番線と17番線の発車メロディーとしても使われています。

 1975(昭和50)年に盛岡駅発の集団就職列車が上野駅に到着し、これをもって戦後復興期を下支えした集団就職に終止符が打たれることになりました。昭和から平成、そして令和と時代が移り変わり、当時の記憶も薄れてきています。

 駅ビルは明るく周囲には観光スポットがたくさんある上野駅ですが、たまには上野駅構内や駅舎から、過ぎ去った昭和を感じてみてはいかがでしょうか。

上野公園の桜並木(画像:photoAC)

関連記事