深夜の新宿で「広島に向かって!」と突然の懇願 20代女性客のやむに止まれぬ事情とは【連載】東京タクシー雑記録(5)
長距離客の穴場とは聞いていたけれど フリーライターをやりながら東京でタクシーのハンドルを握り、はや幾年。小さな空間で語られる乗客たちの問わず語りは、時に聞き手の想像を絶します。自慢話に嘆き節、ぼやき節、過去の告白、ささやかな幸せまで、まさに喜怒哀楽の人間模様。 さまざまな客を乗せて走る東京のタクシーのイメージ(画像:写真AC)今日はどんな舞台が待っているのか。運転席に乗り込み、さあ、発車オーライ。 ※ ※ ※ 普段はあまり行ったことがないタクシー乗り場でのこと。 4年ほど前になるでしょうか。新宿駅南口の甲州街道沿いに開業したばかりの「バスタ新宿」(渋谷区千駄ヶ谷)に入ったことがあります。 北は青森、南は福岡、全国へと走る高速バスの発着ターミナルです。 時刻は23時過ぎ、この時間帯からぼちぼち長距離のタクシー客が出始めると聞いていました。ただし、ここの乗り場はいったんタクシーを入れてしまうと途中で抜けることができない仕組み。 何時間も客待ちでじっとしていなくちゃならない。空振りだとダメージが大きいのです。 幸い1時間と少しで私の順番がやってきました。20代とみられる若い女性が大きなボストンバックを持っています。これは長距離の予感。 「少し遠いんですけど大丈夫ですか?」 「はい、どちらまで」 「広島です。あの原爆ドームがある」 私は腰が抜けるほど驚いて、客の顔をしっかりと見ます。 「いま2万5000円しか持っていなくて……」「いま2万5000円しか持っていなくて……」「広島って、どうしてそんな遠くまで。それもなぜタクシーで行くんですか?」 「夜行バスの最終便に遅れちゃって、どうしても急ぐんです。母が危篤(きとく)になっちゃって、それで仕方なくです」 のっぴきならぬ事情があるようです。女性の目は真剣。思わず気おされます。 深夜の新宿から、広島まで……? 一体どのくらいの時間と料金が掛かるのか(画像:写真AC)「じゃ、とりあえず広島に向かいますけど、料金がどれだけかかるかなぁ。ええと」 「私、いつもは広島まで夜行バスで6000円と少しなんです」 「バスならそれくらいかもしれませんが……」 車は走り出し、一路広島へ。こんな長距離、もちろん経験したことはありません。いくつめかの信号待ちで停車したときです。女性がボソッと、 「あのぅ、私いま2万5000円しか持ってないんですけど」。 「ええーーー! その額ですと神奈川県の外れまでしか行けませんよ」 「やっぱりダメですか?」 「大変に申し訳ないですけれど、こちらも商売ですので。ほかの方法を当たってもらえますか?」 女性は意気消沈した様子で車を降りていきました。 病気の母親に一刻も早く会いに行きたい。でも夜行バスはもう無い――。彼女はこのあとどうするのか、後ろ髪を引かれる思いはありましたが、いかんせんタクシーで2万5000円で広島まではさすがに無理難題です。 続けて現れた長距離客、今度は果たして続けて現れた長距離客、今度は果たして そのあと仲間のドライバーに電話で広島までどれくらい掛かるか聞いてみたら、調べてくれました。 「800kmを高速で乗り継いで約10時間と少し、料金は30万円以上掛かるよ」とのこと。 やはり、行かなくて良かった。カード決済にしても上限が5万円だから6回もパーキングエリア(PA)に入らなければならないし、食事にトイレにガス充填もある。どう考えてもタクシーじゃ無理と分かった。申し訳ないけれど。 女性には悪いことをしたと思う半面、こちらもタクシー乗り場で1時間ちょっと粘って“空振り”を引いたわけですから、今夜の分を何とか取り返さなくてはと必死です。 「広島行き」が冷めやらぬ午前1時半。今度は表参道から根津美術館(港区南青山)に少し入ったところで、30代くらいの背広姿の男性が旅行用キャリーバックを重そうにして手を挙げました。 広島の次は静岡・御殿場。不思議なことは続くものである(画像:写真AC)「すみません、静岡の御殿場まで行けますか?」 「えっ! いいですけど遠いですね。料金もけっこう掛かりますけど大丈夫ですか」 「どうしても急いだ仕事があるのでお願いします。ゴールドカードです」 それで渋谷インターから東名を走りに走りました。3時間半で3万6000円なり。業界ではこれを「お化けの客」と呼びます。東京は大金が動く、実に不思議な街ですね。 もうひとつ、長距離のはずが大損した話もうひとつ、長距離のはずが大損した話 長距離に関してはほかにも面白い話があります。 筆者の体験ではないのですが、夜の22時に大井コンテナふ頭(品川区八潮)から無線配車で八王子までの客で走った同僚Mさんは、「迎車」のまま忘れて空メーターそのまま、何と中央高速道の稲城あたりまで行ってしまった。 そこで気が付き慌ててメーターを入れましたが、すでに3分の2ほどの距離を走ったところ。客にはチケット決済で5000円しか請求できなかった。大損です。その後のMさんの言いぐさが面白い。 「チェッ、けちな客でメータ表示の分しかくれなかったよ」 「いやいや、それはあなたがミスったのが悪いよ」 これはあくまで筆者の経験から来る“ゲスの勘繰り”ですが、そのお客さんはもしかしたらメーターが入っていないことにスタートから気づいていて、とぼけていたのかもしれません。「しめしめ、運転手さん、このまま気が付かないといいのに」、なんて――。 ※記事の内容は、乗客のプライバシーに配慮し一部編集、加工しています。
- ライフ