野口英世が通った東京一の牛丼屋。その意外な具材とは?

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野口英世が通った東京一の牛丼屋。その意外な具材とは?

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食文化史研究家

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明治30年、学生時代の野口英世は、東京一と評判だった本郷の牛丼店に通っていました。その牛丼の具材は、現在の牛丼の具材とは全く違っていました。著書『牛丼の戦前史』において牛丼の起源および歴史を明らかにした、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

野口英世が通った東京一の牛丼店

本郷中央教会.(画像:近代食文化研究会)



 東京大学本郷キャンパスの南にある、1890年創立の古い歴史をもつ本郷中央教会。この向かって左隣に、東京一と言われた牛丼の名店がありました。

 教会の二階に間借りしていた新聞記者の結城禮一郎(ゆうきれいいちろう)によると、本郷に下宿していた学生時代の野口英世は、1897(明治30)年頃この牛丼店に頻繁に通っていたそうです(結城禮一郎『食道楽 1935(昭和10)年10月号』所収の「牛めしと野口英世」)。

上野公園の野口英世の像(画像:近代食文化研究会)

 以下、戦前は「牛丼」よりも「牛めし」という表記のほうが一般的だったので、牛めしという言葉を使わせていただきます。

 “東京第一の牛めし屋だ。亭主は元祖だ元祖だと言つて居た”

 結城によると、東京で一番美味しいと評判だったその店の店主は、当店は牛めしの元祖である、つまり牛めしは自分が発明したと主張していたそうです。

 一銭五厘と格安だったその牛めし。その肉は現在のような、牛バラ肉ではありませんでした。

 “内臓が主で、他に筋(すじ)と脂がまじつて居た”

 正肉は“一丼の中に僅(わずか)に一片あるかなしか”。具の主体は内臓肉で、他にはすじ肉と脂身が入っていたそうです。

明治時代の牛めしは内臓肉が主体

 『食道楽 1905(明治38)年5月号』の「妙なうまい物案内」(清九郎)にも、“東京第一美味い牛めし屋”として、この本郷の牛めし店が取り上げられています。店の名前は「平井」といいました。

 記事ではまず、一般的に牛めしとは“御存じでもあらうが、牛の臓腑や節(すぢ)や頭の、到底食へさうもない處(ところ)を、小さく刻んで煮たのをぶかツけた(原文ママ)飯”であると読者に紹介します。

 牛めしが内臓肉や牛の頭部やすじ肉をつかっていることは“御存じでもあらうが”つまり当時の常識だったのです。

 拙著『牛丼の戦前史』には明治時代の牛めしに関する記録、回想録が多く登場しますが、その具材は内臓肉や頭部の肉やすじ肉や皮が基本。つまり、牛鍋や西洋料理に使用しない部分を格安で譲り受け、それを煮込んでご飯にかけたのが牛めし(牛丼)の原初の姿だったのです。

 元祖を主張していた「平井」の牛めしももちろん、

 “臓物や筋(すぢ)などで、それが多くでもあるかと云へば、なアに少し許(ばか)り、一向他の店のと違はない。”

 他の牛めし店と同じく、内臓肉とすじ肉の牛めしでした。

野口英世が牛めし店に通っていた理由

浅草の正ちゃんの牛めし(画像:近代食文化研究会)

 東京では今でも、明治時代さながらに、内臓肉の煮込みの牛めしを出す店が複数あります。この写真は、そんな原初の牛めしの姿を伝える、浅草の居酒屋正ちゃんの内臓肉の牛めし。

 安いけれども栄養価の高い内臓肉の牛めしは、貧しい庶民の味方。とにかくたくさん食べなければならない人力車夫の力の源となり、 結城禮一郎のような薄給のサラリーマンや貧乏学生の空腹を満たすありがたい滋養食でした。

 ところが、「平井」に通っていた頃の野口英世は、貧しさを理由に牛めしを食べていたわけではありません。

 結城禮一郎によると、野口英世は「平井」の隣りにあった「小杉」という書店の娘「よっちゃん」がお目当て。牛めしは口実、実は娘会いたさに通っていたとの逸話を残しています。

明治時代末以降の牛めしはすじ肉が主体

 明治時代末期になると、牛めしの具材がやや上品になり、各種証言において内臓肉の登場が少なくなりすじ肉が多くなります。

 1895(明治28)年生まれの落語家林家彦六にとって、牛めしとはすじ肉と長ネギで作るもの。

 “昔から牛めしというのは、スジとネギだけです。豆腐やコンニャクを入れたければ、スキヤキを食べればいいじゃないですか。だいいち、ぶっかけて食べるものですから、中にごちゃごちゃ、いろんなもん入っていると、きたならしいじゃあ、ありませんか”(『週刊読売 1978(昭和53)年11月5日号』記事「これがほんとうの牛丼だ」)

 野口英世が食べていた頃の牛めし、つまり林家彦六が生まれた頃の牛めしとはかなり変わってしまい、内臓肉のないすじ肉と長ネギのみの牛めしになっています。林家彦六の世代以降の明治/大正生まれの人は、牛めしにはすじ肉が入っていたと証言する人が多いです。

 林家彦六の証言にあるように、戦前の牛めしの野菜といえば長ネギ。タマネギを使う店もありましたが、大多数の店は長ネギを使っていました。

 長ネギは冬が旬で、夏は収量が落ち腐りやすくなります。そのため、夏場は休業する牛めし店もあったようです。

正肉とタマネギの牛丼を広めたのは、日本初の牛丼チェーン「なんどき屋」

 戦前にも正肉やタマネギを使った牛丼はありましたが、全ての牛丼が正肉とタマネギを使用するようになったのは、日本初の牛丼チェーン「なんどき屋」の影響です。

現在も新橋に存在する日本初の牛丼チェーン店「なんどき屋」(画像:近代食文化研究会)

 1960(昭和35)年に創業し、翌年からチェーン化をはじめたなんどき屋は、正肉とタマネギを使っていました。

なんどき屋の牛めし(画像:近代食文化研究会)

 なんどき屋は牛丼初のチェーン店であるだけでなく、24時間365日経営を始めた日本初のファストフードチェーン店でもあります。詳しくは、「なぜ牛丼チェーンは「24時間営業」なの? 知られざる理由は新橋の老舗店にあった!」(https://urbanlife.tokyo/post/65727/)を御覧ください。

 ファストフードである以上、長時間煮込む必要のあるスジ肉は相性がよくありません。また、季節性のある長ネギも、365日経営のチェーン店への安定供給には向きません。

 早く煮上がる薄い正肉、年間を通じて安定供給できるタマネギは、チェーン店の牛丼に適していたのです。そしてなんどき屋を模倣してチェーン化をはじめた他の牛丼チェーンも、必然的に正肉とタマネギを選択するようになったのです。

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