カウンター形式の天ぷら店の登場は遅かった
ミシュランガイドで星を獲得するような高級な天ぷら店は、カウンターに座ったお客の目の前で揚げる店が多いようです。
揚げたてを出すカウンター形式の天ぷら店(画像:写真AC)
できたての熱々を提供できるカウンター形式は、天ぷら店にとってふさわしい店舗形式といえるでしょう。
しかしながら、天ぷら店にカウンターが登場したのは大正時代(1912-1926年)の末あたりから。天ぷらが登場してから150年以上も経ってからのことなのです。
なぜカウンター形式の天ぷら店の登場は遅かったのでしょうか?
江戸時代-明治時代の天ぷら店にカウンターはなかった
天ぷらは屋台の立ち食いから始まりましたが、江戸時代末になると、料理店や「天麩羅茶漬店」など店舗でも提供されるようになります。
一英斎芳艶『新版御府内流行名物案内双六』 国会図書館デジタルコレクションより(画像:近代食文化研究会)
この絵は幕末の流行店「浅草すわ町金ぷら屋」の天ぷら。目の前で揚げるのではなく、揚げ場で揚げた天ぷらを皿に盛って提供しています。
明治時代の天ぷら専門店にも、カウンターはありませんでした。
露木米太郎『天麩羅物語』より引用(画像:近代食文化研究会)
これは浅草の老舗「三定」のかつての店舗写真。入り口の向かって右側に揚げ場があり、職人は客ではなく道路の方を向いて天ぷらを揚げています。
銀座の老舗天ぷら屋天國(てんくに)二代目主人である露木米太郎の『天麩羅物語』によると、明治時代の天ぷら店はおしなべてこのような構造。カウンターで揚げることはなかったようです。
屋台は作りおきから揚げたてに
岳亭春信『江戸久居計(えどくいけ) 三巻』 国会図書館デジタルコレクションより(画像:近代食文化研究会)
この絵は幕末の天ぷら屋台の絵。左側に、作り置きの天ぷらが並べられています。江戸時代の他の天ぷら屋台の絵を見ても、やはり天ぷらは作り置きしていたようです。
天ぷら屋台は基本、夕方からの営業でした(露木米太郎『天麩羅物語』)。ところがタネの仕入れは魚河岸が開いている朝に行います。
冷蔵技術のない時代ですから、タネを生のまま長時間放置しておくと、劣化したり腐敗したりしてしまいます。なので、なるべく早く揚げて作り置きにしていたのでしょう。
二度揚げぐらいはしていたかもしれませんが、屋台では揚げたての天ぷらを食べることができなかったのです。
ところが明治時代になると氷が普及。生のタネを氷で冷やしておいて、客の注文を受けてから揚げ、できたての熱々を提供するようになります(露木米太郎『天麩羅物語』)。
天ぷら店におけるカウンターの登場
こうなると、目の前で揚げたてを出す屋台に人気が出ます。1900年代あたりから、天ぷらは屋台の揚げたてが一番、という屋台至上主義が生まれるようになります。
ところが、店舗の方の天ぷら店は、カウンターで揚げたてを提供する事ができませんでした。屋台にはない問題を抱えていたからです。それは排気です。
屋台とは異なり、店舗内で天ぷらを揚げると、油煙が客を包んでしまいます。なので揚げ場を入口横に作り、油煙を道路に排気していたのです。
そして大正時代にこの排気問題が解決しカウンターが現れます。
ヒゲの天平広告(画像:近代食文化研究会)
これは関東大震災後に有名店となった京橋の「ヒゲの天平」の広告。「元祖室内立食」と書いてあるように、 ヒゲの天平は室内に屋台式のカウンターを作り、揚げたての天ぷらを立食い形式で提供する元祖的な店でした。
このような店は次第に増え、雑誌『食道楽 1931(昭和6)年5月号』に”屋臺(やたい)式の、所謂(いわゆる)立食い天麩羅とか腰かけ天麩羅と云ふものが流行つて來た”(岡田真吾「天麩羅黄金時代」)とあるとおり、昭和初期に流行するようになります。これが現在のカウンター式天ぷら店の先祖です。
換気扇の普及
油煙の室外への排気を可能にしたのは、換気扇でした。
大正時代に換気扇が普及、大正14年には東芝が換気扇の製造を開始しています。
換気扇だけでなく、扇風機の国産化、リアカーの発明も大正時代です。
これら回転する機械に必要な部品がボールベアリング(玉軸受)。ボールベアリングの国産化も大正時代です。
ボールベアリング(画像:illustAC)
なぜボールベアリングのような、精密加工工業製品の国産化が大正時代に進んだのか。その背景には第一次世界大戦がありました。
第一次世界大戦により欧州の工業製品の生産・輸出が激減。それを埋める形で、日本国内での生産が進展したのです。
ちなみにミシュランガイドで星をもらうようなカウンター式の和食割烹の登場も大正時代。換気扇のおかげで、客の目の前で焼き物や揚げ物が調理できるようになり、熱々の料理を提供できるようになったのです。