昭和まで存在しなかった人形町
中央区の日本橋人形町(以下、人形町)には味のあるお店が並び、江戸時代からのにぎわいを今に伝えています。そんな人形町ですが、公式にその名で呼ばれるようになったのは、1933(昭和8)年のこと。公式には昭和まで存在しなかった地名なのです。なお、現在の1丁目から3丁目までの町域は1980年に決まっています。
人形町はもともと、里俗(りぞく)地名として発生しました。里俗とは土地のならわしを意味する言葉で、現在の住所では
「何町 何丁目 何番地」
と規則的に番号が振られていますが、江戸時代はもっと大ざっぱでした。そのため、誰となく町内の一部や道に通称を付けていました。
人形町の属する旧日本橋区は里俗地名の宝庫です。1937年に編まれた『日本橋區史』では46筆が収録。人形町交差点の近くに石碑の立つ玄冶店(げんやだな)は、与三郎とお富で有名な歌舞伎『与よわなさけうきなの話情浮名横櫛』の舞台で、春日八郎の歌「お富さん」で知られる里俗地名です。
にぎわいの始まりは、現在の人形町3丁目にあたる堺町にあった芝居町から。堺町は、慶長年間に大阪から来た廻船(かいせん)商人らによって海に近い湿地を埋め立てて開かれた町でした。当初は上下に分かれていましたが、江戸時代初期に上が葺屋町(かやぶき職人が多く住んだと伝わる)となり、下が堺町となりました。
江戸三座の筆頭「中村座」の登場
この堺町に1651(慶安4)年、江戸三座の筆頭である中村座がやってきました。江戸歌舞伎の発祥である中村座を中心に、人形浄瑠璃などの芝居小屋や、人形をつくる職人の家が並び、誰となく人形町と呼ぶようになりました。
『元禄江戸図』には、堺町と和泉町の間の通りに人形町という名前が書かれているため、江戸時代前期には通りの周辺を指す俗称として知られていたようです。この通りはおもちゃや錦絵などを扱う商家も並び、正月は手まりや羽子板、3月はひな人形、5月は菖蒲人形の市も立ち、芝居の客目当ての茶屋も繁盛する江戸随一の繁華街でした。
堺町の周辺には元大坂町、浪花町、新和泉町などがあり、総称して芳町(よしちょう)と呼ばれました。芳町の名はのちに正式な町名となり、1977(昭和52)年に人形町と合併するまで続きました。
この近辺は、今も名高い歓楽街・吉原の発祥で元吉原とも呼ばれた土地です。吉原は明暦の大火(1657年)の後、台東区の現在地に移転しましたが、その後は陰間茶屋が軒を連ねる時代を経て、江戸時代後期には人気の芸妓が集まる花街として栄えます。日本最初の女優である川上貞奴(さだやっこ)や小唄勝太郎は、この花街で芸を磨いて名をなしました。
吉原の名残である大門通りは、のちに金物商人が軒を連ね、芭蕉の門人である宝井其角(たからいきかく)が「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」という句をしたためた繁盛の地でした。
にぎわいが多くの里俗地名を生んだ人形町かいわい。多くが消滅するなかで、人形町は存続して正式な町名になった極めてまれな例なのです。
人形町で魅力的な神社巡りを
さて、人形町を歩くなら筆者は神社巡りをお勧めします。
かいわいでまず思い浮かぶのが日本橋七福神です。元は、1950(昭和25)年頃に有馬頼寧(旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主)の発案で始まったもので、一時途絶えたものの、日本橋三越本店などの協力を得た日本橋七福会の主催で、1986年に復活しました。このうち3社は人形町に鎮座しています。
地域で最も古いとされる神社は人形町2丁目の松島神社で、少なくとも鎌倉時代後期には存在していたとされています。元は地域の鎮守でしたが、江戸時代には大工や左官が住む地域となりました。このときに集められた職人がそれぞれの故郷の神様を祭った縁で、祭神は七福神の大国主神(だいこくさま)や北野大神(菅原道真公)、猿田彦神など14柱にも上ります。
由緒ある神社が鎮座しているのは、オフィスビルの1階部分です。また、1丁目の茶ノ木神社(倉稲魂大神と七福神の布袋尊)や、3丁目の橘稲荷神社もビルの一角に社殿を構えており、現代と過去の共存する風景を見られます。
同じく2丁目に鎮座する末廣神社の祭神は、宇賀之美多摩命と武甕槌命(毘沙門天)です。元は吉原の守り神として信仰され、後には難波町・住吉町・高砂町・新泉町の氏神となりました。
近年は毘沙門天の勝運向上のご利益を求めて参拝する人が多いようですが、元は疫病鎮めでにぎわった時代もあるそうです。
興味深い氏子の歴史
人形町でより興味深いのは、神社を支える氏子です。
かいわいはおおむね神田神社(神田明神)か日枝神社(山王権現)の氏子地域ですが、人形町だけは独特で、松島、末廣のほか、椙森神社(日本橋堀留町)など約7社に分かれます。これこそが、ほかの地域には見られない江戸時代から続く伝統です。
江戸の祭りといえば神田祭と山王祭が代表的ですが、これだけではありません。5月から6月にかけては松島や末廣神社の例大祭。江戸時代以前より続く三天王祭。隔年で6月の山王祭か9月の神田祭があり、松島神社の酉(とり)の市など、おのおのの神社の行事も。始終どこかで祭りをやっている、祭り好きにはたまらない日常があったのです。1世帯が複数の神社の氏子になることは、江戸時代では当たり前でした。
ところが明治になり、政府は神社を整理するために、氏子は1世帯につき1社のみの原則を打ち出します。1872(明治5)年の「東京府管轄中総社数調」によると、従来の氏神とされてきた神社を認めず、神田・日枝両社の祭神に加えて豊受大神(伊勢神宮外宮の祭神)を祭って、新たな氏神とすることが求められたと記されています。
この試みはうまくいかず、地元の神社を氏神とすることを求める嘆願書が次々と出されました。これが認められたことで、人形町かいわいでは多彩な神社の氏子が存在する風景が生まれました。こんな神社の歴史を知っていれば街歩きも一段と楽しくなるでしょう。
●参考資料
・中央区編『日本橋區史』上巻1937年
・中央区編『中央区史』上巻1958年
・中央区編『町名の移り変わり』 1988年
・中央区立京橋図書館編『中央区沿革図集|日本橋篇|』1995年
・『最短の七福神巡り 日本橋/東京』
・『朝日新聞』2003年1月5日付朝刊東京地方版
・山田譲司『人形町いまむかし それぞれの祭りと人形町気質』
・『人形町』No.153
・東京都神社庁編『東京都神社名鑑上巻』 東京都神社庁 1986年
・財団法人第一住宅建設協会編『日本橋・京橋地区(現東京都中央区)に所在する全神社・由来に関する実地調査』 財団法人第一住宅建設協会1987年
・小南弘季『明治初頭における氏子域の成立 明治東京の氏子域に関する復元的考察(その1)』『日本建築学会計画系論文集』第82巻第735号
・中央区立京橋図書館編『中央区沿革図集|日本橋篇|』 1995年