中央区「晴海」は物流・経済の新拠点になるはずだった! 89年廃止「晴海線」から考える

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中央区「晴海」は物流・経済の新拠点になるはずだった! 89年廃止「晴海線」から考える

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弘中新一

鉄道ライター

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晴海はかつて、物流や経済の新拠点になると考えられていました。その面影を今に伝えるのが晴海橋梁です。鉄道ライターの弘中新一さんが解説します。

立ち入り禁止エリアから遊歩道へ

 東京の湾岸にはかつて、貨物輸送のための鉄道が張り巡らされていました。東京都港湾局専用線と呼ばれたこの鉄道は1989(平成元)年に廃止され、その遺構は再開発が進んだ今ではほとんど残っていません。しかし、中央区晴海と江東区豊洲をつなぐ春海橋(道路橋)と並行して架かる鉄橋は、同線の面影を今に伝えています。

 この鉄橋は晴海橋梁(旧晴海鉄道橋)といい、1989年以降も撤去されず残り、立ち入り禁止のままになっていましたが、現在、活用計画が進んでいます。

晴海橋梁(左)と春海橋(画像:(C)Google)



 きっかけになったのは2017年に東京都が示した臨海部の海上公園ビジョンで、晴海橋梁を遊歩道とするものでした。計画では2023年までに耐震補強工事を行い、整備は2024年に実施。稼働は2025年頃と見られています。

 公園化は現在、江東区側で豊洲のららぽーと周辺から、中央区側で運河に沿って完了しており、将来的には鉄橋のあった区間が公園となります。

東京市庁の移転計画もあった晴海

 今ではマンションエリアとなっている晴海ですが、かつては貨物船が接岸する埠頭(ふとう)を軸に、港湾設備と倉庫が広がる物流拠点でした。

 明治以降、月島に始まる東京湾の埋め立て工事によって、晴海は太平洋戦争前にはほぼ現在の形となっていました。当時の晴海は物流や経済の新たな拠点になると考えられており、一時は東京市庁を移転する計画もありました。

中央区晴海にある晴海トリトンスクエア(画像:(C)Google)

 計画が実施されていれば、現在の晴海トリトンスクエアの場所には都庁が建ち、都心とは晴海通りの地下を走る地下鉄で結ばれていたことでしょう。しかし当時はあまりに辺ぴすぎると反対論もあり、計画は頓挫しました。

選手村の場所にあったもの

 その後、埠頭の整備による物流拠点化は進みましたが、太平洋戦争で中断。戦後の晴海一帯は竹芝桟橋・日の出桟橋とともに進駐軍によって接収されました。接収は昭和20年代の後半になって徐々に解除されたものの、現在の中央清掃工場のある一帯は米軍が飛行場として使用していたため、返還が遅れました。

 また東京五輪の選手村の場所には、かつて東京国際見本市会場があったことはよく知られています。東京国際見本市協会が1956(昭和31)年に設立され、ここでは見本市会場が整備される前から、催しが開催されていました。ただ米軍の滑走路があったことから、利用は非常に不便な状態でした。

1947年頃の晴海エリアの様子(画像:国土地理院)



「長い滑走路が同町(晴海)の真中に伸び今春ここで国際見本市が開かれた際も、会場は滑走路に分断されて回り道をとり、また飛行場であったため付近は高層ビルを建設することができなかった」(『朝日新聞』1957年11月6日付朝刊)

 滑走路がどういう状態で存在したのでしょうか。それを記録した資料を筆者は見つけられませんでしたが、とにかく開発が行えず、一部に公団アパートがある以外は広大な空き地(都有地)が広がっていたのです。

 空き地は畑としても利用されていました。当時、月島・勝どきの人たちはそこに作物を植え、当時を知る人いわく

「耕運機や脱穀機などを置いて麦を収穫していた」

といいます。このことから、晴海は月島・勝どきの人たちが食糧を得るための重要な土地だったことがわかります。

晴海線の誕生と鉄道空白地帯

 1957(昭和32)年3月、東京都は米軍との土地賃貸契約を更新せず、全面返還が実現します。豊洲から晴海へと鉄道路線が開通したのは同年12月17日のこと。路線は地名にちなんで「晴海線」となりました。

 返還によって埠頭開発が進むなか、東京都は港湾を接続する広大な鉄道網を計画します。ここで計画された晴海線の延長は隅田川を越えて築地市場を経由、汐留から新橋へと接続するものでした。将来的に貨物以外の需要増加が見通されていたのです。

 前述の『朝日新聞』1957年11月6日付朝刊は、こう記しています。

「現在でこそ同フ頭は貨物線の発着がほとんどを占めるが、将来国際貿易センターが完成すれば当然貨客船も横付けされ、観光客の出入りも激しくなるので、この貨物線に電車を走らせ、一般の利用をはかるねらいもある」

 現在、晴海や勝どき一帯は都営大江戸線勝どき駅を除けば、鉄道空白地帯となっています。選手村改め、晴海フラッグ周辺はBRT(バス高速輸送システム)があるものの、駅からの遠さが懸念されています。そう考えると、この鉄道ができなかったのは惜しまれます。

現在の晴海エリアの様子(画像:国土地理院)



 もっとも当時の計画が進展していれば、晴海にはマンションができなかったかも知れません。当時の計画では晴海通りに沿って高層ビルを建ててオフィスと商業エリアを設置し、船舶や商社、銀行などが並ぶ純然たるビジネスエリアの開発が計画されています。この計画では、現在の晴海トリトンスクエア一帯のごく一部が住宅エリアとして使われることになっていたのです。

 その後、都市化の進展で港湾施設が東京湾の外へ移動したため、計画が実現することはありませんでした。少しでも進んでいれば鉄道空白地帯にならず、もっと便利になっていたのかもしれません。

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