甦る昭和ミステリー 怪人二十面相が隠れ住んだ新宿「戸山ヶ原」とは何か?

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甦る昭和ミステリー 怪人二十面相が隠れ住んだ新宿「戸山ヶ原」とは何か?

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野村宏平

ライター、ミステリ&特撮研究家

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江戸川乱歩の作品に登場する怪人二十面相。その隠れ家はいったいどこにあったのでしょうか? ライターの野村宏平さんが解説します。

武蔵野の面影を残した戸山ヶ原

 JR山手線の新大久保~高田馬場間の東西には、終戦直後まで「戸山ヶ原」と呼ばれる大きな野原が広がっていました。

 東は明治通り、西は小滝橋通りに挟まれたエリアで、現在の新宿区大久保3丁目、百人町3~4丁目にあたります(明治通りの東側──戸山1丁目の一部と2~3丁目を含める場合もあります)。

 戸山ヶ原は起伏のある土地に草原とナラ、クリ、クヌギなどの林が広がり、武蔵野の面影を色濃く残す場所でした。

 明治時代初期から陸軍の練兵場(演習場)になり、外周は鉄条網で囲まれていましたが、軍が使っていないときは一般に開放され、学校の遠足や草野球、家族連れの散策地、近所の子どもたちの遊び場として、市民からも親しまれていたといいます。

江戸川乱歩が描いた戸山ヶ原

 野趣に富んだ戸山ヶ原は文学作品に描かれることも少なくありませんでしたが、探偵作家の江戸川乱歩は

・犯罪の場
・怪人の隠れ家

として、この場所をたびたび作品に登場させています。乱歩は引っ越し魔でしたが、高田馬場や早稲田かいわいに居を構えることが多かったので、なじみ深い場所だったのかもしれません。

 乱歩作品で最初に戸山ヶ原が描かれたのは、1925(大正14)年に発表された短編小説「黒手組」です。作中では「T原」という表記になっていますが、「都の近郊にある練兵場」と書かれているので、戸山ヶ原を想定していたことは間違いないでしょう。

新宿区立西戸山公園(西側)のあたりに、かつて一本松があった(画像:野村宏平)



 この作品では、T原の一本松が富豪令嬢の誘拐犯から身代金の受け渡し場所として指定されます。

「T原というのは、あの都の近郊にある練兵場のT原のことですが、原の東の隅っこの所に一寸した灌木林があって、一本松はその真中に立っているのです。練兵場とはいい条(じょう)、その辺は昼間でもまるで人の通らぬ淋しい場所で、殊に今は冬のことですから一層淋しく、秘密の会合場所には持って来いなのです」

 乱歩は「原の東」と書いていますが、実際には山手線の西側エリア──現在の区立西戸山公園(西側)のあたりに一本松がそびえていたといいます。開放時の戸山ヶ原は行楽客も多かったそうなので、「昼間でもまるで人の通らぬ淋しい場所」というのは事実と異なる気がしますが、戸山ヶ原を「淋しい場所」として描くのは、乱歩作品におけるお約束のようなものでした。

 1930(昭和5)年連載開始の『黄金仮面』では、謎の怪盗・黄金仮面の隠れ家がある場所として「戸山ヶ原」の名前がはっきりと出てきますが、ここでもやはり「淋しい場所」とされています。

「郊外戸山ケ原のはずれの実に淋しい場所に、ポツンと建っている古い洋館で、場所といい建物といい、何となく不気味な感じがする」

というのが、その描写です。

『怪人二十面相』に登場する陸軍の射撃場

 1936(昭和11)年連載の『怪人二十面相』では、二十面相の隠れ家のひとつが戸山ヶ原にあるという設定でした。黄金仮面の隠れ家と同様、古い洋館なので同じ建物を再利用したと考えることもできるでしょう。

「車の止った所は、戸山ケ原の入口でした。老人はそこで車を降りて、真暗な原っぱをよぼよぼと歩いて行きます。さては、賊の巣窟は戸山ケ原にあったのです。原っぱの一方のはずれ、こんもりとした杉林の中に、ポッツリと、一軒の古い西洋館が建っています。荒れ果てて住手もないような建物です」

 このあと、名探偵・明智小五郎の助手である小林少年がこの洋館の地下室に閉じ込められてしまうのですが、彼は探偵七つ道具の縄ばしごを使って、天井近くに設けられた明かり取りの小さな窓から外を観察することに成功します。

「窓の外、広っぱの遥か向こうに、東京にたった一箇所しかない、際立って特徴のある建物が見えたのです。東京の読者諸君は、戸山ケ原にある、陸軍の射撃場を御存じでしょう。あの大人国の蒲鉾を並べたような、コンクリートの大射撃場です」

 ここで小林少年が目にした射撃場というのは、現在の大久保3丁目に実在していた施設です。

 1879(明治12)年に開設され、1884年に閉鎖された戸山学校競馬場の跡地に造られた実弾射撃訓練場で、当初は敷地内に築かれた土塁を標的にしていたそうですが、大正時代になって周辺の宅地化が進むと、近隣住民から騒音や流れ弾に対する苦情が急増しました。そこで陸軍省は、射撃場をカマボコ状のコンクリート屋根で覆うことにします。その結果、1928年に完成したのが、長さ300mに及ぶ7棟のトンネル型射撃場でした。

 射撃場は戦後もしばらく残され、米軍が使用していましたが、1958年に返還されたあとは早稲田大学理工学部(西早稲田キャンパス)、都立戸山交通公園(現・都立戸山公園大久保地区の南部)、新宿区体育館などに生まれ変わりました。

戸山公園の南端に今も残る射撃場の土塁の一部(画像:野村宏平)



 現在も戸山公園の南端には射撃場の周囲に築かれていた防弾土塁の一部が残っており、その近くの塀の隅には「陸軍」という文字が刻まれた軍用地境界石が埋め込まれています。

 なお、『怪人二十面相』の戦後のバージョンでは、「陸軍」「射撃場」という言葉は削除され、単に「大きな建物」という表現に変えられています。

怪人二十面相の隠れ家はどこにあった?

 小林少年は射撃場の見える方角から、二十面相の隠れ家が「戸山ケ原の北側、西寄りの一隅にある」ことを突き止めますが、乱歩はどのあたりを想定していたのでしょうか。

 その位置に関しては、何人もの研究家・好事家がさまざまな考察をしており諸説あるのですが、ひとついえるのは、いかに怪盗といえども軍用地のなかに家を建てることはできなかっただろうということです。

 たとえ建てたとしても、すぐ軍に目をつけられて捜索されてしまうでしょうから隠れ家の役目をはたせません。したがって戸山ヶ原のなかではなく、隣接する外側の場所にあったと考えるのが妥当でしょう。

新宿区高田馬場4丁目(画像:(C)Google)



「戸山ケ原の北側、西寄り」という作中の言葉にしたがうなら、山手線の西側──現在の高田馬場4丁目の南部ということになります。現在は百人町4丁目との境界に大きな道路が通っていますが、戦前はこの道路はなく、曲がりくねった小道に沿って戸山ヶ原を囲む鉄条網が張られ、その北側に一般民家が建っていました。二十面相の隠れ家もその一帯にあったのかもしれません。

 ただし、射撃場とのあいだには雑木林や山手線の線路、三角山と呼ばれたひときわ高い土塁などがあり、見通しがきく場所は限られていたと思われます。

さらなる隠れ家候補地とは

 あるいは乱歩が、「黒手組」の一本松のように現実とは異なる方角を記した可能性もあります。だとすると山手線の東側で、戸山ヶ原北辺の諏訪通り沿いも考慮に入れたほうがいいかもしれません。

 乱歩は1928(昭和3)年にほんの1か月程度ですが、戸山ヶ原の目の前にある玄国寺の近く(現・高田馬場1丁目)に住んでいたことがあります。射撃場の真北に位置するこのあたりも、二十面相の隠れ家候補地のひとつといえるのではないでしょうか。

 では、戸山ヶ原の北側以外はどうかというと、可能性は低そうです。東側の明治通り沿いには陸軍戸山学校や近衛騎兵連隊があり、隠れ家を建てられる余地はありません。

新宿区百人町3丁目(画像:(C)Google)

 山手線西側エリアの南部(現・百人町3丁目)には大正末期から陸軍科学研究所と陸軍技術本部が置かれ、戦争に向けて施設が増設されていったため、監視の目が厳しかったと思われます。その西辺は低地で、樹木が生い茂っていたため射撃場まで見通すのは難しかったでしょう。

戦後の戸山ヶ原

 戦後、戸山ヶ原は住宅・文教地区へと変貌し、かつての原っぱは公園や集合住宅に生まれ変わりました。

 集合住宅としては公務員や国鉄職員の宿舎などが建てられましたが、もっとも規模が大きかったのが、1948(昭和23)年に西側エリアで建設がはじまった都営戸山団地(戸山アパートとも呼ばれる)です。この団地は高度経済成長期、全国で建てられるようになった団地の先駆けモデルになったといわれています。

戸山団地の西にそびえていた1949年完成の第一給水塔。2000年撮影(画像:野村宏平)



 同団地のシンボル的な存在だったのが、東西に立っていた高さ54mの2基の給水塔です。特に、新宿消防署の近くの第一給水塔は塔上に火の見櫓(やぐら)が置かれていたこともあって、かつて浅草にあった凌雲閣(通称・十二階)をほうふつとさせ、フォトジェニックな建築物として人気がありました。

 谷崎潤一郎の小説を原作とした1983年の映画『卍』では、刑事役の原田芳雄と妻役の高瀬春奈が百人町の警察官官舎で暮らしているという設定で、すぐ横にそびえる第一給水塔が暗喩的にしばしば映されるのが印象的です。

昭和末期から始まった街の変化

 その南側、かつて陸軍技術本部および科学研究所があった場所には、建設省建築研究所、蚕糸科学研究所、都立衛生研究所、資源科学研究所(のちに国立科学博物館分館に吸収合併)、東京教育大学光学研究所などの研究施設が軒を並べるようになりました。

 研究所群の北側には、飲食店や電器店、精肉店、薬局、貸本屋などが並ぶ商店街も形成されました。

 しかし、昭和末期になるといくつかの研究機関が筑波研究学園都市へと移転します。光学研究所の跡地には社会保険中央総合病院(現・JCHO東京山手メディカルセンター)が建てられましたが、西側にあった建築研究所は廃墟化した建物群が長いあいだ放置されていました。

 穴だらけの塀の向こうに立ち並ぶ、窓ガラスがことごとく割れた建物は、かたわらに立つ古びた第一給水塔とともに一種独特のオーラを放ち、それこそ二十面相が出没してもおかしくないような雰囲気を漂わせるようになったのです。

 その一方、山手線沿いにあった公務員宿舎が東京グローブ座や高層住宅の西戸山タワーホウムズに変貌し、周囲の景観を一新させました。

1980年代、廃墟のまま放置されていた旧・建築研究所。1989年撮影(画像:野村宏平)

 時代が平成に変わると建築研究所の廃墟も撤去され、百人町ふれあい公園として整備されます。さらに21世紀になると、ふたつの給水塔が解体され、戸山団地も百人町三丁目アパートや百人町四丁目アパートに名を変えて新しい高層住宅に生まれ変わりました。

 最近も、都立衛生研究所が東京都健康安全研究センターとして建て替えられ、科学博物館分館の跡地には桜美林大学新宿キャンパスが開設されました。山手線の東側でも新大久保駅前を経て職安通りまで抜ける新しい道路が開通し、新宿ガーデンと呼ばれる2棟の超高層ビルが完成するなど再開発が続いています。

 いまや戸山ヶ原の面影どころか昭和後期の痕跡さえ少なくなってしまいましたが、西端の坂道を降りた小滝橋交差点際には昭和初期に建てられたと思われる銅版貼りの看板建築も残っており、このあたりが歴史ある土地だということをあらためて感じさせてくれます。

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