いったいなぜ? 戦前の「牛鍋」が「すき焼き」に名前を変えた文化的背景

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いったいなぜ? 戦前の「牛鍋」が「すき焼き」に名前を変えた文化的背景

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近代食文化研究会

食文化史研究家

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戦前「牛鍋」と呼ばれていた牛肉のすき焼き。いったいいつ頃、名前が変わったのでしょうか。鳥鍋の歴史を『焼鳥の戦前史』で、桜鍋(馬のすき焼き)の歴史を『串かつの戦前史』で描いた近代食文化研究会さんがその歴史について解説します。

「関西のすき焼き屋」進出説のウソ

 東京における現在の牛肉のすき焼きは、戦前「牛鍋」と呼ばれていました。それではいつ、なぜ名前がすき焼きに変わったのでしょうか?

すき焼きを作る様子(画像:写真AC)



 よく耳にするのが、1923(大正12)年の関東大震災で東京の牛鍋屋が衰退し、かわりに関西のすき焼き屋が東京に進出したからという説明ですが、これは事実ではありません。

 関東大震災後に発行された

・『食行脚』
・『人間見物』
・『東京名物食べある記』
・『浅草経済学』
・『三都喰べある記』
・『大東京うまいもの食べ歩き』

などの食べ歩き本、外食店評論本に登場するのは東京伝統の牛鍋店ばかり。登場する関西風すき焼き店は「菊水」「浪花」のみです。

 牛鍋がすき焼きに名前を変えたのは、関西のすき焼き屋進出が原因ではないのです。

一足先に「すき焼き」に名前が変わった東京の「鳥鍋」

 親子丼で有名な人形町の老舗「玉ひで」(中央区日本橋人形町)。この店で出される軍鶏(シャモ)のすき焼きは、戦前は「鳥鍋」あるいは「軍鶏鍋」とよばれていました。

震災後も東京の牛鍋店が健在であることを示す『三都喰べある記』の記述(画像:国立国会図書館ウェブサイト)

 戦前のグルメ雑誌『食通 昭和14年1月号』の「冬の味」というコラムに、この玉ひでが登場します。

「この家では「鳥なべ」と言つてすきやきと言はぬところに多少東京的頑固さを持つてゐる」

 つまり、玉ひで以外の店では、鳥鍋、軍鶏鍋からすき焼きに名前が変わってしまったというのです。

『食通 昭和11年5月号』のコラム「鶏のうまさ」に

「その頃はみんな鍋といつてゐた。今日でいふすき燒のことである」

とあるので、1936(昭和11)年頃には鳥鍋からすき焼きに名前が変わっていたようです。

明治時代以降進行した言葉の統一

 この時期に関西からの鳥すき焼き店の進出などはありませんでした。名前が変わった理由は、言葉の統一によるものです。

 明治時代以降の鉄道網の整備による地域間の交流の活発化、産業革命による地方から都会への人口移動、義務教育の普及、新聞雑誌ラジオといったメディアの発達により、言葉の統一に対するニーズが生まれました。

 例えば、「果物」というのは関西の言葉。明治時代の東京では「水菓子」とよばれていました。ところが、昭和に入ると東京出身者の著作物においても「果物」と書かれるようになります。

大阪料理の東京進出で関西料理界の言葉に統一

 昭和初期の「濱作」の銀座出店とともに、東京の日本料理界は関西、特に大阪料理に席巻されるようになります。「八百善」などの伝統の江戸-東京料理屋は衰退し、日本料理といえば大阪が本場とされるようになります。

「すき焼き」「果物」などの関西料理界の言葉が東京においても使われるようになったのは、この大阪料理による東京の支配が理由ではないかと考えます。

桜鍋(画像:写真AC)



 東京伝統の桜鍋(馬肉のすき焼き)は、現在も「桜鍋」のままです。なぜなら、大阪には馬肉のすき焼きを食べる習慣がなかったので、「馬のすき焼き」という大阪の言葉も存在せず、桜鍋という言葉が上書きされることもなかったのです。

言葉の統一が遅れた牛肉のすき焼き

 1932(昭和7)年10月29日の朝日新聞東京版に、「最近牛なべのことをすき燒といふ」という読者投稿がありました。この頃になると、統一の波が牛鍋にも及ぶようになったようです。

 ところが「戦前の牛鍋→すき焼き」への統一は、中途半端なままに終わりました。その理由は、東京の牛鍋と関西風のすき焼きとでは、その内容が大きく異なっていたからです。

 東京の牛鍋は、前回の記事「『鬼滅の刃』でおなじみ 牛鍋弁当の「牛鍋」とはいったい何だったのか?」で説明したように、少量の割り下でしゃぶしゃぶのようにサッと煮焼きする料理。

 一方、関西風のすき焼きはシチューのような煮込み料理でした。

煮込み料理だった関西風すき焼き

 戦前に関東関西を往復した政財界宗教界の大物や歌舞伎役者は、関西風すき焼きは大量の水分で煮るシチューのような煮込み料理であったと証言しています。

「上方のすき焼はこれ(東京の牛鍋)と全く反對(はんたい)だ。始めから野菜を鍋の中で脂肪で一度炒めてから煮てかかる」「料理の仕方から云ふと、江戸式の牛鍋がすき焼であつて、上方の方を牛鍋と云ふのが當(あた)つてゐるのではなからうか」(大河内正敏『味覚』) 

「東京の牛鍋は、上方のすき焼のように汁沢山ではない」(波多野承五郎『食味の真髄を探る』)

「(牛鍋は)「すきやき」のように肉をクツクツ煮たりはしない」(坂東三津五郎『食い放題』)

大谷光瑞『食』(柴田書店)からの引用(画像:近代食文化研究会)



「肉菜の混煮(まぜに)をなし、甚(はなは)だしき多量の液汁を使用せり」(大谷光瑞〈こうずい〉『食』)”

完全に名前を変えたのは1960年頃

 このように料理自体が大きく異なっていたために、東京の「牛鍋」と関西の「すき焼き」は別の料理と認識され、言葉の統一はなかなか進みませんでした。

 それでも人の移動の増大やメディアの発達により、統一への圧力は次第に強くなります。

現在のすきやき(画像:写真AC)

 そして、1960年頃に出版された本には、

「看板も、牛鍋という文字は、見られなくなって、すべて、すき焼となってしまった」(古川緑波(ろっぱ)『悲食記』)

「近ごろ街を歩いても、「牛鍋」の看板を見ることは、ほとんどなく、「すき焼」に変ってしまった」(植原路郎(ろろう)『鰻・牛物語』)

 というふうに、ほぼ完全に「牛鍋」が「すき焼き」に変わった様子が描かれるようになるのです。

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