地震被害にも負けない! 足立区を激変させた「日暮里・舎人ライナー」開通の衝撃

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地震被害にも負けない! 足立区を激変させた「日暮里・舎人ライナー」開通の衝撃

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弘中新一

鉄道ライター

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先日の地震で脱輪被害を受けた日暮里・舎人ライナー。そんな同路線ですが、開業への道のりも困難に満ちていました。鉄道ライターの弘中新一さんが解説します。

震度5で脱輪するも4日ぶりに再開

 10月7日(木)、東京都と埼玉県で最大震度5強を観測する地震が発生。その影響で、日暮里駅(荒川区)から見沼代親水公園駅(足立区)を結ぶ日暮里・舎人(とねり)ライナーは車両が脱輪し、大きな被害を受けました。

 結果、車両をクレーンでつり下げて移動させることになり、11日にようやく運行再開となりました。

 幸いにもけが人などは出なかったものの、足立区西部では交通網が大混乱する事態に。なにしろ足立区西部には、日暮里・舎人ライナーのほかに鉄道はありません。バス路線もあるとはいえ、周辺道路は渋滞が多く、時間通りに必ず運行する信頼度の高い公共交通機関は、日暮里・舎人ライナーのみなのです。

 ということで今回は、地震で改めて重要性が認識された日暮里・舎人ライナーをご紹介します。

利用者過多だった都営バス

 現在、足立区では西から

1.日暮里・舎人ライナー(2008年開業)
2.東武伊勢崎線(1899年開業)
3.つくばエクスプレス(2005年開業)

の三つの鉄道路線が走っており、区内を南北に縦貫しています。

 しかし、かつての鉄道路線は東武伊勢崎線のみ。区外に出るには

・東西方向へバスで移動して東武伊勢崎線に乗る
・区外へ運行しているバスを利用する

という選択しかありませんでした。

日暮里・舎人ライナー(画像:写真AC)



 現在の日暮里・舎人ライナーのルートにあたる地域では、日暮里駅に向かう都営バス「里48系統」が主要な公共交通機関になっていました(現在も運行中)。

 この系統は、現在の日暮里・舎人ライナーの高架の下にある尾久橋通りを走るのですが、沿線から通勤・通学するほぼすべての人が利用することに加えて、慢性的に渋滞する道路だったこともあり、ラッシュ時の定時運行は困難を極めていました。

 こうした事情から、足立区の隅田川以北は東武伊勢崎線沿線を除けば、ほとんどが「陸の孤島」になっていました。そのため、足立区では1970年代から新たな鉄道の建設を求める声が強まっていました。

「新都市交通システム」への期待

 建設案では当初、地下鉄7号線(現在の南北線)のルートに加えるなど、さまざまな案がありましたが、建設費と採算性の兼ね合いから、地下鉄ではなくモノレールを検討することで方針が固まります。

『読売新聞』1987年1月20日付朝刊では、東京都と沿線の足立区・荒川区の計画案を報じており、この時点では「在来の鉄道ではなく、街路の上に設置されるモノレールなど新都市交通システム」を建設するとされています。

 このとき、北端は足立区の舎人付近と決まっていましたが、南端はどのターミナルと接続するかについて、いくつかの案がありました。

 考えられていたターミナルは、次の通りです。

・日暮里
・南千住
・北千住
・王子
・田端
・上野

 その後、1988(昭和63)年12月に日暮里と決まります。その理由は、都心との直結性はもちろんのこと、建設の目的である交通過疎地を解消するのにもっとも適していたからです。

現在の地図と、日暮里・舎人ライナーが開業していない1987(昭和62)年の地図(画像:写真AC)



 この決定を受けて、沿線は歓喜しました。なかでも日暮里駅周辺では新線建設に伴う再開発で地域活性化が期待されていたこともあり、地元の商店街が

「早くこいこい! 日暮里・舎人新線」

と書いたのぼり旗140本を立てるお祭り騒ぎに。そして区役所が「無許可で道路に旗を立てるのはダメ」と中止を求める珍事に発展しました。

 沿線が盛り上がったのは、建設される路線が「新交通システム」だったこともあります。現在、都内の新交通システムは日暮里・舎人ライナーとゆりかもめの2路線ですが、当時はほぼ未知の存在です(ゆりかもめの着工は1989年)。

 メディアでは「ゴムタイヤを用いた車両が走るモノレールのような路線」と紹介され、運転手がいなくても運行できることは、大きな衝撃を与えました。

 1981年に神戸市が神戸新交通・ポートアイランド線を開通させ、自動運転はすでに実用化されていましたが、都内で乗ったことのある人はまだ少ない未知の交通機関でした。

難工事を乗り越えて完成

 こうして早期の完成が期待された日暮里・舎人ライナーですが、東京都の財政状況の問題から、運輸省(現・国土交通省)の認可を得たのは1995(平成7)年でした。その後、工事が始まったものの、幸先は決して楽なものではありませんでした。

日暮里・舎人ライナーの熊野前~扇大橋間(画像:(C)Google)



 とりわけ課題となったのは熊野前~扇大橋間です。なぜなら

・隅田川
・荒川

をまたぐ扇大橋を横に見ながら、首都高速中央環状線を立体交差で越えるという難工事だったからです。そのため、当初の1999年から2008年まで開業予定がずれ込むことになりました。

 乗車すると約3分間で通り過ぎてしまう熊野前~扇大橋間ですが、この工事に技術者の汗が染みこんでいると思うと、鉄道ファンではない人でも感慨深くなるでしょう。

埼玉県南部からも利用者の増えた

 こうして2008年3月30日に開業を迎えた日暮里・舎人ライナーは、足立区の風景を大きく変えました。それまで交通過疎地とされ低層住宅の並んでいた風景は、開通をあてこんだマンションと大型店で活気を帯びました。

 交通ルートも大きく変わりました。

 舎人駅近くに住むある会社員はかつて、日比谷の会社へ出勤するために、バスで東武伊勢崎線の竹ノ塚駅まで移動し、東武伊勢崎線に乗車。北千住駅でメトロ千代田線に乗り換えてと、移動に50分かかっていました。それが、日暮里・舎人ライナーの開通で40分と10分も短縮され、定期代も6000円近く安くなったといいます(『朝日新聞』2008年3月27日付朝刊)。

 周辺のバス網も変わりました。沿線に路線を持っている東武バスと国際興業では、草加市や川口市を走る路線を最北端の見沼代親水公園駅まで延伸し、新たな通勤・通学ルートの整備を行いました。

日暮里・舎人ライナー(画像:写真AC)

 その後、沿線のみならず埼玉県南部からも利用者の増えた日暮里・舎人ライナーでは、需要が予想を大きく上回る形となり、混雑率が180%以上と、東急や小田急の各線のラッシュ時と同等になり、増発が相次ぐ盛況となりました。

 鉄道の新路線が開通することで地域の様相が一変することはよく語られますが、足立区の場合は「激変」といってもよいでしょう。

 そんな大動脈ゆえに、地震からわずか3日間で復旧に持ち込んだ関係者の努力には頭が下がります。

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