独自路線を爆走する「テレ東」 でも開局当初はエンタメ要素ゼロのお堅い放送局だった!

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独自路線を爆走する「テレ東」 でも開局当初はエンタメ要素ゼロのお堅い放送局だった!

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ミゾロギ・ダイスケ

ライター、レトロ文化研究家

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東京都内に多く存在するテレビ/ラジオ放送局。しかしそのルーツについて知る人は少ないです。今回は意外なルーツを持つ放送局をライターのミゾロギ・ダイスケさんが紹介します。

「NET」という名前だったテレ朝

 先日、長い歴史にピリオドを打ったクイズ番組『パネルクイズ アタック25』の放送が始まった1975(昭和50)年4月頃、テレビ朝日は「NET(エヌイーティー)」と呼ばれていました。Nは「日本」、Tは「テレビ」の頭文字です。

港区六本木にあるテレビ東京(画像:(C)Google)



 では、Eは? それは、バラエティー番組を次々にヒットさせる現在の同局とはイメージが異なる言葉の頭文字です。よって「エンターテインメント」ではありません。

 ある年代以上の人ならご記憶でしょうが──正解の発表を後回しにして、まずは時計の針を日本の民間放送の創成期に戻したいと思います。

「NET」の「E」はNHKの「E」同じ

 現存する民間のテレビ局、ラジオ局の歴史の始まりは、終戦から5年後の1950(昭和25)年に、法律によって民間放送局の設置が認められてからです。このとき、免許を与えられた者のみに周波数が割り当てられ、放送局を開設できるというシステムが整備されました。

 1951年、まずラジオの民間放送が始まり、東京の民放ラジオ局第1号としてラジオ東京(現・TBSラジオ)が誕生。テレビは最初に日本テレビ(1953年)が、次にラジオ東京のテレビ部門(1955年)が放送を開始しています。

 そして、1957年には郵政省(現・総務省)が、京浜地区で新たに三つのテレビ用周波数を割り当てることになります。そのうちひとつはNHK教育テレビジョン(現・Eテレ)に、残るふたつは民放総合局、さらに民放教育専門局にそれぞれ振り分けられることが決まりました。

 当時、国は放送メディアを通じた教育の役割を、民放にも託そうとしていたのです。

港区台場にあるフジテレビ(画像:写真AC)

 このとき、いくつもの勢力が参入を希望しましたが、最終的に民放総合局の枠で富士テレビジョン(現・フジテレビ)、“民放教育専門局”の枠で日本教育テレビに免許が与えられました。実は日本教育テレビこそ、NETの正式名称です。

 つまりNETのEは、「Eテレ」のEと同じ「エディケーショナル」……「教育」の頭文字でした。

かつてのテレ東は娯楽番組を放送できなかった

 1959(昭和34)年の開局当時、日本教育テレビは全体の半分が教育番組、他の多くも教養番組の放送が義務付けられていました。

 しかし、民間の教育専門局ビジネスは失敗に終わります。経営難に陥った日本教育テレビは、例えば

「外国の文化を知ることができる」

というお題目で海外の娯楽映画を放送するといった具合に、教養番組の扱いを拡大するなどして、事実上の脱・教育専門局を目指します。

 1960年12月にはNETテレビと通称を改めますが、これも教育のイメージを薄めるためでしょう。

港区六本木にあるテレビ朝日(画像:写真AC)



 一方、東京12チャンネル(現・テレビ東京)は、1964年の開局当初、科学テレビとも名乗っていました。なにしろ日本科学技術振興財団(千代田区北の丸公園)という組織が母体であり、

・科学技術教育番組:60%
・一般教養番組:15%
・教養/報道番組:25%

とすることが開局の条件で、娯楽番組はほぼゼロ。そして、こちらも経営がうまくいきませんでした。

 結局、国はNETと東京12チャンネルの総合局化を1973年に認めることになります。そして、NETテレビは1977年にテレビ朝日、東京12チャンネルは1981年にテレビ東京に通称を改め、現在に至っています。

TOKYO FMも教育放送がルーツだった

 東京のラジオ局の中にも、意外なルーツを持つ例があります。現在はTOKYO FMと呼ばれるエフエム東京の前身は大学が作ったラジオ局でした。

千代田区麹町にあるエフエム東京(画像:(C)Google)

 前述のように、1950年代~1960年代前半の日本では、国が放送メディアによる教育の可能性を追求していました。この背景から、複数の大学が独自運営の超短波放送局、つまりFMラジオ放送局設立の準備を進める動きがありました。

 そのひとつに、1958(昭和33)年から実験放送が始まった東海大学によるFM東海こと、東海大学超短波放送実用化試験局がありました(当初は東海大学超短波放送実験局)。番組は同大学による通信制授業が主でしたが、広告収入を得ることが認められ、音楽番組も放送していました。

 ところが、国が方針を転換し、民間放送による高等教育に消極的になり、FM東海への風当たりを強くしたため、同局は閉局を余儀なくされます。その後を引き継いだのが、1970年に株式会社として設立された「エフエム東京」でした。

 なお、今も放送中の『JET STREAM』(1967年~)は、FM東海時代より続く番組です。  

文化放送の母体はカトリックの布教目的で誕生

 現在は港区浜松町にある文化放送の局舎は、かつて新宿区若葉にあり、その建物は教会風のものでした。

港区浜松町にある文化放送(画像:(C)Google)



 なぜなら、同局のルーツはカトリックの布教を目的に聖パウロ修道会が設立した財団法人セントポール放送協会だからです。

 この組織は紆余(うよ)曲折を経て、宗教色を薄めた財団法人日本文化放送協会という組織に姿を変え、1952(昭和27)年に教育・教養番組を中心としたラジオ局として開局。

 ところが、やはりは経営が難しく、1956年に「株式会社文化放送」により再出発することになるのでした。

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