都内から消えた屋台
かつて都内ターミナル駅の周辺には、夜になると数多くの屋台が並びました。しかし時代は21世紀になり、もはや見かけることはありません。
屋台が減少した背景には、営業許可の難しさがあります。一般的に屋台を営むには、
・食品営業許可
・道路占用許可
・道路使用許可
を得なくてはなりません。
特に道路占用許可は、道路工事でもなければ、現在はほぼ取得できません。ほかの許可も衛生面でのハードルが高いため、条件を満たすのは簡単ではないのです。
また東京都では弁当の路上販売が急増したことに対して、食品製造業等取締条例の改定を2015年に行い、規制を強化しました。衛生管理が問題視され、周辺店舗の客を奪う屋台には許可を出したくないのが本音でしょう。
露店が許可されている都有地もありますが、昔ながら露店スタイルではなく、キッチンカーで営業することが望ましい――というのが東京都の方針です。
その結果、屋台は過去のものになり、空いている土地やオフィスビルの共有空き地などにキッチンカーが集まるのが、現代の屋台風景となっています。
そんな屋台風景の源流が「屋台村」です。屋台村という言葉は、今では一般名詞となり、各地のイベントや商店街の町おこしで行われる店舗群を指します。また、内装を屋台風にしていくつかの店が入居する固定店舗の例もあります。しかし始まったばかりの屋台村は、まさに屋台そのものでした。
バブル景気崩壊にマッチした屋台村
この屋台村ですが、世田谷区喜多見に1990(平成2)年4月にできたのが初の事例です。屋台村を始めたのは、都内で移動屋台を展開していた一龍グループの三浦愛三社長。『日食外食レストラン新聞』1993年10月18日付の記事によれば、取材時点で屋台村は神奈川県海老名市、茨城県つくば市にもオープンしており、さらにフランチャイズ店もありました。
1号店の世田谷店は店舗面積76坪、客席数は120席。テントハウスの炭焼店だった建物をリニューアルし、客席を囲むように六つの屋台が配置されていました。
屋台村のできた1990年といえば、バブル景気の真っ最中。高級品が飛ぶように売れた時代に、安価な屋台は一見そぐわない気がしますが、屋台村の登場とバブル景気は密接な関連性がありました。
もともとこのビジネスを始めた一龍グループは都内で多くの屋台を流していましたが、バブル景気になると次第に取り締まりが強化され、路上から閉め出されていくようになります。これに対して「働く場所を確保しようと、屋台を1か所に集めて屋台村にした」のが屋台村だったわけです(『毎日新聞』1992年10月13日付夕刊)。
さて、この新スタイルの業態はバブル景気の崩壊とともに、各地で模倣されるようになります。
バブル景気の頃、都内の繁華街では盛んに地上げが行われました。ところがその崩壊によって、まとまった土地が空き地のまま放置されている状況があちこちで発生。そうしたなか、安普請のほうが店の雰囲気を出せる屋台村は最適な業態だったのです。
景気低迷で小遣いが減ったため、さまざまな料理を安く楽しめる屋台村は消費者にとっても魅力的でした。価値が高価なものから安価なものへと移り変わる時代において、屋台村の人気は拡大していきました。
歌舞伎町と池袋、六本木にも出現
この時期、都内では新宿区のビル建設予定地を3年契約で借り上げた「歌舞伎町屋台村」が、池袋駅北口前には大きなテントに8軒の屋台を並べた「池袋屋台村」がオープンしています。
屋台村が盛り上がった結果なのか、1991(平成3)年に881店舗だった都内の屋台は、1992年に891店舗と微増しています(『産経新聞』1993年6月28日付夕刊)。
こうして屋台村が人気になると、今度は既存店舗が屋台村を名乗り始めます。
六本木にできた「お江戸華屋台」は、ビル地下1階のカフェバーだった店舗跡の装飾をはぎとりコンクリートをむき出しにして、雰囲気を出しました。
また屋台村の雰囲気は、男性だけでなく女性にも大いに受けました。店によっては客の6割近くが女性というところもあったほどです(『毎日新聞』1993年8月6日付夕刊)。
こうした屋台村の魅力は安さはもちろんのこと、開放感から来る気安さや、隣のテーブルの人たちと気兼ねなく話せることでした。
コロナ禍で人々の間にイライラムードがただようなか、この開放感や気兼ねなさはもっとも求められているものです。コロナ禍が明けて、皆でワイワイガヤガヤやりながら、心置きなく交流するのが今から楽しみです。