「鬼滅の刃」遊郭編 「子どもに見せる・見せない」と言ってる人へ まず知るべきは吉原の歴史だ
テレビアニメ化が決定したテレビアニメ「鬼滅の刃」遊郭編。そこで問題となっている「子どもに見せるべきか」論争について、吉原の歴史を交え、ルポライターの昼間たかしさんが解説します。「遊郭編は子どもに見せて大丈夫なのか」 2020年に大ヒットした映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』(外崎春雄監督)のDVDとブルーレイが6月16日(水)、発売されました。 店着日の6月15日だけでも21万8000枚を売り上げ、オリコンデイリーDVDランキングでは1位。また情報番組でもニュースとして取り上げられたこともあり、記録はまだまだ伸びそうです。 なお2月には「遊郭編」の2021年テレビアニメ化決定も発表され、既にティザービジュアルとプロモーションビデオ第1弾が公開されています。 原作単行本では8巻から11巻部分までにあたる「遊郭編」ですが、アニメ2期が発表になる以前の2020年からしばしば話題になっていたのが、 「遊郭が舞台。子どもに見せて大丈夫なのか」 ということでした。 筆者(昼間たかし、ルポライター)はこの反応についてやや過剰と感じますが、やはり世間の感覚が変化しているのでしょうか。 吉原のルーツ 40代の筆者が小学生だったころ、時代劇は地上波で盛んに放送されていました。そんななかでも ・遊郭 ・岡場所(江戸幕府非公認の私娼〈ししょう〉地) ・夜鷹(よたか。江戸時代に夜の道ばたで客を引いた私娼) は、だいたい20時台の放送で当たり前に出てきました(地域によっては平日午後に再放送されていました)。 テレビアニメ化が決定した『鬼滅の刃』遊郭編(画像:アニプレックス) 子どもながらよくわからないなりに納得し、高学年あたりになると「昔はそういうものがあったのか」と知識が増えていったと記憶しています。当時は本物の遊郭を知っている世代も多く 「子どもの頃に川で大きな魚を釣って、遊郭に売りにいって小遣いを稼いでいた」 という話をする年寄りもいました。 吉原という地名は既に無くなっています。元の吉原の範囲は現在の台東区千束3~4丁目です。 吉原はもともと江戸開府にあたって、現在の中央区人形町付近つくられた幕府公認の遊女屋です。現在の人形町は都心部ですが、江戸初期には海に面したヨシ(葭)の茂る町外れの場所でした。その「葭原」が転じて「吉原」となりました。 そして、江戸の街が拡大すると大名屋敷に隣接するようになります。そのため幕府は1656(明暦2)年10月、移転を命じます。 遊女が2000人もいた吉原遊女が2000人もいた吉原 こうして現在地(台東区千束3~4丁目)に移転した吉原は敷地5万坪、遊女2000人あまりを数える、江戸市中でも屈指の繁華街となります。また江戸時代を通じて、吉原の商売敵も次々と出現しました。 台東区千束3~4丁目(画像:(C)Google) 吉原は幕府公認でしたが、料金もそれなりに高く、しきたりにもうるさい場所でした。それに対して、岡場所(非公認)はもっと気軽な場所と認識されていました。 時期によって異なりますが、江戸の街は男性が過剰に多い都市でした。 『享保通鑑(つがん)』によれば、1718(享保3)年の町奉行支配下の町方支配場は男性28万9918人に対して、女性は14万4715人。この数字はあくまで町奉行支配の町方のみの人口で、吉原や寺社奉行支配下の神官、僧侶、武家地などは含まれていませんが、資料から類推するに、総じて男性が多いと言えます。 そんなこともあり、吉原以外にすぐに行ける宿場町である品川や内藤新宿、板橋などでは私娼で大いににぎわいました。 明治時代になるとにぎわいは縮小しますが、遊郭は1957(昭和32)年に売春防止法が施行されるまで続いたのです。 『鬼滅の刃』の舞台は、その途中の大正時代です。 ファンの考察で、主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)の参加した最終選別が1912(大正元)年から1915年までであることが明らかになっています。 前回の「無限列車編」は月齢(新月のときをゼロとして数えた日数)から、1916年11月18日の出来事と推定されています。そのため、「遊郭編」は年が明けて1917年にかけての出来事と考えられます。 この時代はヨーロッパで悲惨な第1次世界大戦が続き、主戦場から離れた日本は戦争特需で成り金が生まれる好景気でした。 華麗な遊郭と人権団体華麗な遊郭と人権団体 この頃の吉原の風景を知るために最適なのが、1987(昭和62)年公開の東映映画『吉原炎上』(五社英雄監督)です。 『吉原炎上』(画像:東映) 同作品は吉原遊郭の女性たちを描いた作品で、名取裕子演じる主人公が吉原に売られるのは1908(明治41)年であることから、『鬼滅の刃』の舞台よりも少し前の時代設定です。膨大な予算を費やしてつくられた華麗な遊郭のセットは見応えがあります。 前述の売春防止法(1957年)以前の時代、売春は公に認められていましたが、それを維持するか廃止するかの議論は常に活発に行われていました。 明治政府は1872(明治5)年に「芸娼妓(しょうぎ)解放令」を布告し、人身売買は禁止されていましたが、売春そのものは禁止されておらず、公的なケアも存在していませんでした。そのため、「自由意志で契約している」という建前で女性たちが遊郭に売られる状況は続いていました。 明治時代を通じて人権思想が広まると、この状況に対して改善を求める声が強まります。 大審院が1900年、契約によっても身体を拘束することは芸娼妓解放令に抵触するために無効という判決を下すと、自由廃業運動が盛んになります。 廃業を呼びかける運動は具体的で、『吉原炎上』に登場する救世軍(廃娼運動などの社会改革運動を行ったプロテスタント団体)のように、遊郭に出向いて賛美歌を流しながら行進し呼びかけることが当たり前に行われていました。 遊郭専門の書店に集まる女性たち このように、遊郭は ・独自文化が育まれるきらびやかな世界 ・女性の苦海(苦しみの絶えないこの世を海に例えた言葉) というふたつの側面を併せ持っていました。そうした歴史を知っておくと「遊郭編」もより深く見ることができるのではないでしょうか。 現在の吉原は性風俗店の集まるエリアですが、一方、2016年にできた遊郭専門の書店「カストリ書房」(台東区千束)は客の多くが女性ということでも知られています。 台東区千束にある「カストリ書房」のウェブサイト(画像:カストリ書房) また、最近の遊郭の歴史や文化に関する研究は女性がとても目立っています。この事実も「子どもに見せる/見せない」などと議論をしている時代ではないことを教えてくれます。
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