わずか49歳で逝った近代化の立役者――五代友厚を語らずして「渋沢栄一」を語ってはいけない【青天を衝け 序説】

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わずか49歳で逝った近代化の立役者――五代友厚を語らずして「渋沢栄一」を語ってはいけない【青天を衝け 序説】

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小川裕夫

フリーランスライター

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“日本資本主義の父”で、新1万円札の顔としても注目される渋沢栄一が活躍するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。そんな同作をより楽しめる豆知識を、フリーランスライターの小川裕夫さんが紹介します。

2作で五代役を演じるディーン・フジオカ

 渋沢栄一を主人公とするNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、埼玉県を舞台とする血洗島・青春編を終え、5月9日放送回から一橋家臣編が始まりました。

 一橋家臣編では、冒頭にディーン・フジオカさんが演じる五代友厚が登場。ディーン・フジオカさんは2015年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」でも五代役を演じて人気を博しました。奇しくも、ディーンさんは朝ドラと大河ドラマのどちらでも五代役を演じることになったわけです。

 朝ドラでは、五代没後にファンが気力を失う“五代ロス”という現象まで発生。それだけに、「青天を衝け」でディーンさんが改めて演じる五代に注目が集まります。

薩摩藩から重用された五代

 渋沢は埼玉県の富農として生まれ、後に15代将軍に就位する一橋慶喜に仕えます。一方、五代は薩摩藩が抱える儒学者の家に生まれました。父は薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)からの信任が厚く、ゆえに五代友厚も薩摩藩から重用されました。

 薩摩藩主・島津斉彬は開明派だったこともあり、西洋の技術を次々と取り入れて製鉄・造船・兵器・ガス・電気といった新しい産業を導入しています。それだけに、藩士たちへの教育にも理解があり、五代は長崎への遊学を命じられました。

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK)



 当時の長崎は諸外国とも窓口だったこともあり、異国の文化や技術を学ぶには最適な地でした。そこで、五代は新しい文化・技術に触れます。その後も、五代は藩命でたびたび中国・上海に渡航し、海外の製品を買い集めていたようです。

 五代は長らく長崎で海外との窓口役を務めましたが、1863(文久3)年に薩摩藩はイギリスと一戦を交えることになります。いわゆる薩英戦争ですが、世界の覇権国家たるイギリスに敵うはずもなく、薩摩藩は敗北。

 イギリスからは許されましたが、幕府は外国と勝手に戦争したことを許さず、五代は追われる身となります。五代は武蔵国へと逃亡し、熊谷に潜伏します。

 薩摩藩士の五代が、なぜ遠く離れた武蔵国の熊谷を潜伏先に選んだのかは明らかになっていませんが、潜伏地の熊谷と渋沢の出生地である深谷は距離的に近いこともあり、「青天を衝け」では渋沢と五代がすれ違うシーンが伏線として描かれました。

渋沢と遜色ない五代の実績

 五代は1865(慶応元)年、薩摩藩遣英使節団の一員としてイギリス・ロンドンへと渡ります。渋沢も後にフランス・パリへと渡り、現地で新しい社会を知ったのですが、五代は渋沢より一足早く海外を経験しています。

 そして、帰国後には西洋滞在で学んだ知識を活かし、新たな産業を興すために奔走。五代は薩摩藩の財政面や武器・弾薬の調達を任された半商人・半武士としても活動していくのです。こうした五代の商人としての活動は、薩摩藩の倒幕運動を経済面で後方支援することにつながります。

 幕末から明治にかけて、五代は商人の町として経済発展をつづけている大阪を拠点にしていました。

 五代は大阪の経済・産業振興を図るため、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪株式取引所(現・大阪取引所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)などを設立しています。こうした五代の業績を見ると、渋沢の取り組んだ多くの事業と遜色はないと言えるでしょう。

大阪証券取引所ビルの前には、五代の像が建立されている(画像:小川裕夫)



 五代は49歳という若さで1885(明治18)年に没します。五代の活動範囲は全国に及びますが、主な活動拠点が大阪だったことから、「東の渋沢、西の五代」と称されました。

 西の大実業家である五代は大阪での活躍がクローズアップされますが、五代は東京・築地に鉱山管理の事務所を構えています。そのため、たびたび商談などで東京に足を運ぶ機会もあったのですが、東京では同志だった旧薩摩藩士や長崎時代の旧友の起業支援をすることが多かったようです。

東京都電にもゆかりがあった五代

 例えば、1880年に開業した東京馬車鉄道は旧薩摩藩士の種田誠一と谷元道之などが主導した日本初の私鉄です。

 馬車鉄道とは馬が動力源になっている鉄道で、東京馬車鉄道は技術革新とともに動力源を電気へと変更。1903年には社名を東京電車鉄道へと改称し、その後も東京電車鉄道は東京鉄道、東京市電へ名称・事業体を変え、現在は東京都電として運行されています。五代は同じ薩摩出身という縁から、東京馬車鉄道の開業資金を工面したのです。

 また、幕末に五代が主導して建設した日本初の西洋式ドック「小菅修船場」の初代所長を務めた平野富二は後に石川島造船所(現・IHI)を立ち上げますが、それ以前に平野は築地で活版印刷工場を経営していました。五代は、平野が経営していた工場の経営も支援しています。

 先述したように、五代は若くして死没しています。手がけていた事業は後継者によって引き継がれますが、それらは時代の荒波に飲み込まれていきました。

現在、五代の邸宅跡地は日本銀行大阪支店が建っている(画像:小川裕夫)



 五代のビジネスモデルは多く人々から資金を集め、集めた資金で大きな事業を興すというものでした。これは渋沢の実践していたビジネスモデルと同じですが、志半ばで倒れてしまったこともあり、莫大な負債だけが残る結果になりました。

 しかし、五代の残した功績は決して無視できるものではありません。渋沢は多くの事業を興しましたが、それらは五代というフロントランナーがいたからこそ実現が可能だったのです。

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