ものづくりの街「蒲田」が大きな変貌を遂げているワケ
2019年10月6日
知る!TOKYO製造業が盛んだった蒲田は、今ではその姿を大きく変えています。いったいなぜでしょうか。ルポライターで著作家の昼間たかしさんが解説します。
町工場の集積地だった蒲田
東京都内で、この10年あまりに大田区の蒲田ほどイメージの変わった街はありません。

もともと日本の製造業を支える町工場の集積地として栄えた蒲田周辺。今も職人技を売りにする工場は数えきれません。しかし製造業が海外へ移転するにつれ、工場の数も減りつつあります。
「昔は夕方になれば出前の自転車が行き交っていたし、日曜日は遊びに出る工員でいっぱいだったなあ……」
今も工場を営む工場主に昭和30年代の風景を尋ねると、そういって遠い目をされたことがあります。一仕事を終えて、飲む打つ買うを楽しむ作業服姿の男性たち。かつての蒲田の風景は今は見かけません。21世紀になったころまで残っていたキャバレーを初めとする色街も完全に姿を消しました。
東京工科大学・蒲田キャンパス誕生で若者増加
それに変わって増えてきたのが、羽田空港を利用する外国人観光客、都心への交通が便利だということで移住してきたファミリー層、そして学生や若者です。

そのような蒲田で、若者が集まる通りといえば「工学院通り商店会」でしょう。ここはもともと「有楽会」と呼ばれていたのですが、通りを抜けた先にある「日本電子工学院」にちなんで、「電子工学院通り会」と名称を変更。1976(昭和51)年には、新たに「日本工学院専門学校」のちに「蒲田工学院通り会」として現在に至っています(商店街の看板には「工学院通り会」と書かれています)。
この学校は長らくテレビの技術者を養成する専門学校として知れており、現在までに優れた技術者を輩出しています。さらに、2010(平成22)年には同じ学校法人が運営する東京工科大学の蒲田キャンパスが竣工したことで、より多くの若者が通学するようになりました。

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