「歌手になる夢あきらめきれない」 29歳女性、東京でもがき続けた日々の末

  • ライフ
「歌手になる夢あきらめきれない」 29歳女性、東京でもがき続けた日々の末

\ この記事を書いた人 /

下山光雄のプロフィール画像

下山光雄

画家、フリーライター

ライターページへ

東京で暮らし、働く人々は、どんな思いを抱いて生きているのでしょうか。1400万人もの人がいるけれど、誰もがかけがえのない「ひとり」であり、それぞれの夢や希望を胸に秘めています。そんな「東京のひとり」たちを追う企画、今回は歌手デビューを目指す29歳の女性の物語です。

茨城から上京、厳しい世界へ

 毎年、歌手を目指す何百人もの新人がデビューを果たしますが、ほとんどが日の目を見ないまま消えていきます。歌がうまい、イケメン、かわいいだけでは通用しない現実。そんな厳しい世界に、東京でもがきながら挑戦し続ける女性がいます。

 芸名は自分で決めた白雪未弥(しらゆき みや)。純白の雪のように透き通った歌声を、聴く人の心に届けたいとの思いを込めたそうです。

※ ※ ※

 本名・遠井未弥は1991(平成3)年12月、茨城県結城市に生まれ、父母と祖母、曽祖父母、妹ふたりの4世代8人が住む家に育ちました。

 筆者が彼女と初めて出会ったのは演歌歌手・三橋美智也氏の後援会の新年会でした。8年も前になります。未弥はゲスト出演で「おんな船頭唄」「津軽じょんがら節」を声高々に歌いました。

 民謡で鍛えたのどと節回しは百点満点。作曲家の榊薫人(さかき しげと)さんの弟子ということです。歌だけじゃなくおしゃべりも上手、とっても明るくて、これは将来有望だと注目しました。

 2020年の春にデビューする予定だったのが新型コロナウイルスの関係で延期になり、さらに追い打ちをかけるように榊師匠の病気が悪化して同年8月に亡くなってしまいます。未弥は師匠の看病に尽力しましたが、それにより歌手活動が休止してしまいます。

「激動の1年だったけど、私の中で、良い意味で何かが吹っ切れました。歌手で成功することが師匠の成功にもなる。真っ直ぐ生きよう」。いつまでも悲観して泣くのはやめると心に決めます。

始まりは祖母と民謡教室

 民謡を習い始めたのは小学4年生のとき。母方の祖母・谷島つや子さんが稽古に通っていたので未弥も自然と一緒に通うことになりました。両親も、おっとりした控えめな性格の彼女に何か自信を持たせたいと思っていたのです。

 当時、学校でうまくなじめていなかった彼女ですが、民謡を覚え始めた頃、つや子お祖母ちゃんの後押しがあって老人ホームのお祭りで歌う機会が巡ってきます。未弥は緊張しながらもめいっぱい頑張りました。

「入居しているお爺ちゃん、お婆ちゃんが涙を流して喜んでくれて、私はその光景に子どもながらに感動しました。民謡が大好きになり、学校の文化祭でも民謡を披露すると、不思議なことに仲間外れから一転して人気者になりました」

民謡と剣道の両立、多忙な日々

 中学生から始めた剣道では名門と評判の道場に通い、高校では朝練から厳しい稽古に励みます。さらに疲れ切った体で民謡の稽古にも通うというハードスケジュールで、家族も心配するほど。送り迎えの車の中はいつも寝ていました。

民謡で鍛えた歌声で、歌手デビューを目指す白雪未弥さん(画像:白雪未弥)



 茨城県立境高等学校剣道部は全国大会を目指す強豪校でした。顧問の為我井(ためがい)先生から、頭を使って勝負する戦法や、ミスしてもすぐ切り替えるプラス思考、目上の人への接し方、日常生活のマナーまで教えられ、培った財産は歌にも役立つと信じています。

「お客様の前で、ドバッと(歌詞を)忘れたり、滑ったり転んだりしても、気持ちを切り替えて乗り切れることもあります」

老人ホームで働きながら歌手を目指す

 2008(平成20)年、16歳で「青少年みんよう全国大会」にて茨城県民謡の「磯節(いそぶし)」で優勝します。同じ頃に剣道も努力を重ねて初段(後に三段)を取得しました。
 未弥は父に「音楽学校に行きたい、歌手になりたい」と伝えますが、頑なに反対され、介護の仕事をしながら歌手を目指すことに決めました。

 食事介助や入浴介助、それから歯磨きや体を拭くのも、いっさい手抜きはできません。一生懸命働くと、入居しているお年寄りから「孫のようだ」とかわいがられます。介護はコミュニケーションを図ることによって相手をより深く知り、生きがいや楽しみを持ってもらうのが大切だと学びました。

 その後、介護の専門学校で介護福祉士の国家資格を取得。19歳のときには、つや子お祖母ちゃんに勧められ、同県結城市で行われた「NHKのど自慢」に出場して地元チャンピオンになりました。観客の歓声と拍手が飛びぬけていて、歌いながら涙が出たほどです。

 カラオケで何時間も歌唱曲の「お父(ど)う」を練習した成果でした。

 そして後日、「お父う」の作曲家・榊薫人さんから運命の電話があります。榊さんは映画『トラック野郎』挿入歌の「トラック音頭」(歌・都はるみ)の作曲者です。映画に出演した菅原文太さんと愛川欽也さんも口ずさんでいます。また榊さんは他にも多くの歌手に楽曲を提供しています。

「うちのレッスン受けてみませんか」と。未弥は「何が何でも歌手になりたいです! よろしくお願いします」と伝え、本格的な歌手修行が始まります。

お年寄りに歌を披露、人気者に

 老人ホームでは、正式なスタッフとなって多忙な日が続きます。

 ある千葉県出身の男性は「木更津甚句」が大好きと聞き、空き時間に練習して歌ってみせると、涙をこぼして喜んでくれました。怒りん坊の女性が、未弥の顔を見ただけで泣いてしまう。「どうしたんですか?」と聞くと「あなた娘みたい。嫌味のない顔ねぇ」と返事します。

 未弥は嬉しくなりました。青森県鯵ヶ沢生まれの女性がいたので、津軽民謡を歌うと「なんぼかいいもんだ」とニコニコして喜び、また別の男性には、得意の「お父う」を歌うと「あんた、この歌はいい歌だなぁ」としみじみと言い、覚えてくれました。

 人の心を癒やす歌の力をあらためて感じる体験でした。

地元民謡の大会で優勝も

 2013年、21歳で地元民謡「磯節」の歌声を競う第34回「磯節全国大会」で優勝しました。「磯節」は日本の三大民謡と言われています。史上最年少の優勝に、ようやくプロ歌手の夢が近づいたように思いました。

 老人ホームに勤めた8年間は、苦楽もありましたが、相手に喜んでもらえる、やりがいのある仕事に変えていくことの大切さを学んだ日々でした。

 上京し、グループホームやデスクワークの仕事をしながらも「歌手デビュー」という夢を温め続けました。第25回古賀政男メロディー歌謡大会でも「無法松の一生~度胸千両入り」で大賞を受賞。24歳のときでした。

 しかし、榊さんにさまざまな音楽事務所に売り込んでもらうものの、なかなかご縁がありません。榊さんからは「歌い手である前に、ひとりの人間であれ」と常日頃言われ、義理人情、人の道を曲げないこと、礼儀作法を厳しく叩きこまれました。

夢は紅白、レコード大賞

 未弥はきっぱり言います。

「榊先生が亡くなる前、『デビューさせることができなくてごめん。僕の集大成は未弥だ。未弥が歌わなかったら国民の損失だから何としてもデビューしなさい』と言われました」

「ですから、私は絶対に歌手デビューします。そして紅白歌合戦出場、日本レコード大賞も獲りたい。私は崩れないし負けない」

 師弟愛に胸が熱くなりますが、コロナ禍が続いて先の見えない芸能界。未弥のように実力があってもなかなか機会を得られない若者がどれだけいるのでしょう。そんなことをつい考えてしまうのでした。

 未弥のチョっと笑える話をひとつ。

 3年前、ひたち海浜公園で「郷土芸能まつり・みやショー」を開催したときのこと。大張り切りした彼女は、大好きな「潮来花嫁さん」など何曲かを歌唱。最後に「東京五輪音頭2020年バージョン」を歌いますが、1番、2番を歌い終え、カラオケ伴奏が終わったにも関わらず、両手を広げて、

「ハァーー、2020年いのちのたかぁり、ソレトトトントネ、今日という日は今日かぎり、君と明日が会えるように、交わす言葉はありがとう、アチョイネ、よいしょこりゃありがとう、トントントトントン、いばらぎでぇー♪」

と高い声を張り上げ、茶目っ気たっぷりに披露しました。

 間が良かったのでしょうか? 無伴奏が良かったのでしょうか? 観客は「いいぞー、頑張れよー、日本一」と応じて、一番の歓声と拍手になります。

 楽屋の仮設テントに戻ると、榊さんが「打ち合わせもしてないのに、音響の人が困るでしょ」と叱りました。ペコペコと謝る未弥。でもやっぱり「エッヘン、未弥はみなさまの心を癒やしまーす」。

関連記事