実直一筋の名脇役――渋沢喜作を語らずして「渋沢栄一」を語ってはいけない【青天を衝け 序説】

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実直一筋の名脇役――渋沢喜作を語らずして「渋沢栄一」を語ってはいけない【青天を衝け 序説】

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小川裕夫

フリーランスライター

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“日本資本主義の父”で、新1万円札の顔としても注目される渋沢栄一が活躍するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。そんな同作をより楽しめる豆知識を、フリーランスライターの小川裕夫さんが紹介します。

渋沢栄一と渋沢喜作の深い関係

 大河ドラマ「青天を衝(つ)け」は、俳優・吉沢亮さんが演じる渋沢栄一が主人公です。明治以降、渋沢は実業界で華々しく活躍し、約500社の企業の設立・経営に関わりました。

 渋沢が歴史的な実業家であることは異論を挟む余地はありません。他方で、渋沢が成し遂げた偉業は渋沢ひとりの力で成し遂げたものでもありません。渋沢が達成した事業において、多くの協力者は欠かせません。

「青天を衝け」では高良健吾さんが演じる渋沢喜作(成一郎)も、栄一の事業を手助けしたひとりです。喜作は栄一のいとこにあたる間柄にあり、家も近くでした。作中でも仲良く遊び、学ぶシーンが描かれています。また、前回の放送では藍葉生産の番付表を一緒に作成しています。

 それほど親密なふたりは、これからも一緒に学び、行動し、運命をともにしていきます。例えば、栄一と喜作は尊王攘夷(じょうい)思想に傾倒したことからクーデターを決行。これは失敗し、ふたりは追われる身になりました。その際、ふたりは一緒に京都へ逃亡。その後に身の安全を図るべく、徳川慶喜に仕官したのです。

 徳川を打倒しようと決起したふたりが、その大本ともいえる徳川の家臣になってしまう。その節操のなさは、いかにも若さゆえ。とにかく慶喜の家臣になったことがふたりのその後を大きく変えました。

 慶喜に才能を認められた栄一は、1867(慶応3)年にフランス・パリ万博に幕府の代表として派遣される徳川昭武に随行することになり、パリ滞在は栄一に大きな刺激を与えました。一方、喜作は日本に残り、彰義隊に加わって最後まで新政府軍に抗戦しました。そのため、明治維新を逆臣として迎えました。

 しかし、新政府が栄一の才能に着目。栄一が大蔵省(現・財務省)で才能を発揮すると、栄一の推薦が大きく影響して喜作も大蔵省で働くことになります。

退官後、事業を立ち上げた喜作

 大蔵省在任中、喜作は養蚕業の視察を目的にフランスとイタリアへ派遣されます。喜作が帰国すると、栄一は退官。喜作も運命をともにして、大蔵省を退官します。民間に転じた喜作は、第一国立銀行の立ち上げに協力した小野組で働きました。

 しかし、小野組はすぐに破綻。そのため、喜作は栄一にならって自身で事業を起こそうとします。手始めに、喜作は東京・深川で渋沢商店を立ち上げました。喜作が立ち上げた渋沢商店は、破綻した小野組と商取引をしていた東北地方の米農家から米を買い入れる受け皿のような役割がありました。

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK)



 翌年、喜作は事業を拡大するべく、横浜へと進出。当時、横浜の大商人として名を高めていた吉田幸兵衛から営業権を譲り受け、生糸部を開設しました。

 メイドイン・ジャパンの輸出品として海外で人気を博していた生糸を販売することで、渋沢商店はさらに成長。しかし、米相場が暴落したことにより本業だった米問屋業で大損失を出してしまいます。

 その後、喜作は生糸の海外取引で手にする洋銀の換金取引でも莫大(ばくだい)な損失を出しました。さすがに短期間で2回も大損失を出したことから渋沢商店は経営が立ち行かなくなり、栄一が損失を穴埋めするために財界を駆け回りました。

取引先から人気があった喜作

 栄一の助けもあり、損失は穴埋めされました。しかし、喜作は経営責任をとって渋沢商店の責任者を辞任。1890(明治23)年に息子の作太郎へ経営権を譲ります。

 渋沢商店という一私企業の経営から退いた後も、喜作は経済界に関わりを持ち続けました。頼み事を断れない人柄の喜作は、下請け企業や取引先から人気があったのです。

 1896年には喜作は東京商品取引所の立ち上げ際にも力を貸し、そして推され理事長に就任。翌年には栄一が北海道の地方振興策として立ち上げた十勝開墾の社長を務めました。

上は1909(明治42)年測図の地図。現在「八芳園」がある場所には「渋沢邸」の表記が(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 1903年、喜作は実業界から引退。芝(現・港)区にあった白金台の邸宅で余生を過ごし、1912(大正元)年に74歳で没しました。喜作が余生を送った白金台の邸宅は、その後に所有者が変わり、現在は結婚式場・レストランを経営する八芳園(港区白金台)となっています。

栄一と喜作の不思議な絆

 いとこという関係もあって、喜作は栄一とたびたび比較されてきました。「資本主義の父」と形容される栄一と比べると、喜作の経済界における足跡は小さく、ゆえに研究者などからはビジネスのセンスはなかったと酷評されることも少なくありません。

 しかし、昭武に随行してフランス・パリに滞在した栄一の代わりとして、喜作は日本で留守を務めました。ほかにも、栄一が立ち上げた企業の経営を任されるなど、自由奔放に走り回る栄一に対して、喜作は実直に仕事をこなし、陰で支える存在を務めてきたのです。

 スポットライトの当たりづらい役ではありますが、そうした仕事も企業にとっては重要で、そうした影の力によって企業経営は支えられているのです。喜作は、栄一にとって「縁の下の力持ち」でした。

 そんな喜作を栄一は、きちんと理解していました。それは喜作の葬儀で、栄一が「(喜作とは)一身分体だった」と弔辞で読みあげたことからも伝わってきます。

 渋沢が立ち上げた500にもおよぶ企業のうち、多くの企業は社名から渋沢が消失しています。現在まで“渋沢”を冠しているのは、喜作と栄一が東京・深川で一緒に立ち上げた渋沢倉庫(江東区永代)です。

江東区永代にある渋沢倉庫のウェブサイト(画像:渋沢倉庫)



 単なる偶然でしかありませんが、そんなところにも栄一と喜作の不思議な絆を感じさせます。

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