渋沢栄一の偉業は東京だけじゃなかった! 静岡を日本屈指の「お茶王国」にした実績をご存じか【青天を衝け 序説】

  • ライフ
  • 茅場町駅
  • 飛鳥山駅
渋沢栄一の偉業は東京だけじゃなかった! 静岡を日本屈指の「お茶王国」にした実績をご存じか【青天を衝け 序説】

\ この記事を書いた人 /

小川裕夫のプロフィール画像

小川裕夫

フリーランスライター

ライターページへ

“日本資本主義の父”で、新1万円札の顔としても注目される渋沢栄一が活躍するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。そんな同作をより楽しめる豆知識を、フリーランスライターの小川裕夫さんが紹介します。

なぜ渋沢は静岡で生活したのか

 俳優・吉沢亮さんが渋沢栄一を演じる大河ドラマ「青天を衝(つ)け」は、2月14日(日)から放送が始まりました。

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK)



 本作では冒頭に、北大路欣也さんが扮(ふん)する、江戸幕府を開府した徳川家康が登場し、時代背景などを説明しています。渋沢栄一が生まれたのは、徳川家康の没後から約220年以上も後です。徳川家康が渋沢を知っているはずもなく、あくまでもドラマの演出に過ぎません。

 しかし、渋沢と徳川家康はまったく接点がなかったわけではありません。渋沢は徳川家康ゆかりの地でもある静岡で、大きな足跡を残しているのです。

 現在、「青天を衝け」は渋沢の出生地である武蔵国血洗島(現・埼玉県深谷市)を舞台に物語が進行していますが、明治初期に渋沢は静岡に居を構えました。なぜ、渋沢が静岡で生活したのでしょうか? それを知るためには、渋沢の足跡をたどらなければなりません。

慶喜に連れ添い、静岡に住んだ渋沢

 渋沢家は藍玉(あいだま、発酵させた藍の葉を乾燥させて固めた染料)の生産・販売、養蚕で財を築く富農でした。しかし渋沢は家業を継がず、草彅剛さんが演じる徳川慶喜に仕官しました。

 渋沢は慶喜から信頼を得たこともあり、幕府の代表としてフランス・パリ万博に参加する弟の昭武に随行します。渋沢は昭武の世話係・会計係として働きます。

 昭武がパリ生活を送るなか、徳川幕府は崩壊して明治新政府が発足します。そのため昭武はパリ滞在を切り上げて帰国、渋沢も日本へと戻りました。

 徳川の最高責任者だった慶喜は、新政府によって静岡へと国替えを命じられました。帰国した渋沢は主君だった慶喜に連れ添い、静岡へと居を移しました。

静岡駅近くにある「徳川慶喜公屋敷跡碑」(画像:(C)Google)

 徳川家は全国を統治する将軍家から静岡の統治者になり、領地は70万石に減りました。

 70万石といえば島津・毛利・前田と比肩するレベルの広大な領地ですが、江戸から従ってきた家臣の数は島津・毛利・前田の比ではありません。領地が減ってしまったことで家臣を食べさせていくことができなくなり、徳川家は家臣に帰農を奨励したのです。

 帰農した武士たちはコメづくりではなく、茶づくりに挑戦します。以前から静岡では茶づくりが盛んでしたが、武士たちが茶づくりを始めた牧之原大地は農地には不向きだったこともあり、手つかずになっていました。

製茶産業の近代化をバックアップした渋沢

 幸運にも、牧之原大地の土壌は茶づくりに適していました。

静岡県内の茶畑のイメージ(画像:写真AC)



 帰農した武士は多かったこともあり、牧之原大地の一帯は見る見るうちに茶畑が広がっていきました。そして、茶の栽培地は静岡全域に拡大。静岡は日本屈指の「茶王国」となりました。

 主君だった慶喜に連れ添って静岡で生活していた渋沢は、静岡の産業を振興するべく静岡商法会所を立ち上げます。静岡商法会所とは、現代で例えるなら銀行・商社・農協・商業会議所・商工会などの役割を併せ持った組織です。

 茶王国になった静岡ですが、お茶は摘み取った茶葉を製茶しなければ出荷できません。それらの作業を効率化するには近代的な工場が不可欠で、莫大(ばくだい)な資金が必要でした。しかし静岡の茶農家の多くは資本がないため、大規模な工場を建設することは難しい状態でした。

 渋沢は商法会議所で集めた事業資金を茶農家などに融資。この事業資金を元手に製茶工場が設立され、同時に流通経路も整備されていったのです。

渋沢、再び東京へ

 殖産興業(資本主義的生産方法を保護育成しようとした政策)を推進していた明治新政府は、諸外国から輸入される舶来品に日本製品が押され気味になっていることに危機感を募らせました。

 その対抗措置として、日本からも輸出できる農産品や工業製品をリサーチします。調査の結果、生糸と茶は諸外国でも人気が高いことが判明し、茶の栽培が奨励されました。

製茶作業のイメージ(画像:写真AC)

 静岡商法会議所の成功を見た明治新政府の役人たちは、渋沢を官職へとスカウトしようとしました。渋沢は断るつもりで上京しましたが、大隈重信の説得に折れて、以降は東京で生活を送ります。

 渋沢は、自分が静岡から離れることで静岡の茶業が衰退してしまわないか心配していました。そのため、なじみのあった三井組(三井財閥の前身)に後見を頼んでいます。

 こうして東京へと居を移した渋沢でしたが、その後も静岡の茶業を気にかけていました。旧主の慶喜を訪れるため、渋沢は静岡へとたびたび足を運んでいます。

その後も足しげく静岡に通った渋沢

 1897(明治30)年、徳川慶喜は静岡から東京へと住まいを移します。

 主君に会いに行くという口実はなくなりましたが、その後も渋沢は足しげく静岡に通いました、静岡の経済・商業団体や学校の求めに応じて、時に講演に立つこともありました。

渋沢栄一(画像:深谷市、日本経済新聞社)



 渋沢が興した企業の多くは、現代を生きる私たちにとって欠かせない事業になっています。渋沢は埼玉出身で東京に本拠地を構えましたが、各地に足跡を残しています。静岡も、そのひとつです。

 渋沢と無縁と思っていても、実は私たちの身の回りには渋沢と関連する企業や事業、産業があるのです。

関連記事