「老人だらけの街」なんて言ったの誰? 100平米の中古物件が「2000万円以下」、コロナ禍で再評価される多摩ニュータウンとは

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「老人だらけの街」なんて言ったの誰? 100平米の中古物件が「2000万円以下」、コロナ禍で再評価される多摩ニュータウンとは

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櫻井幸雄

住宅評論家

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東京都西南部の多摩丘陵を開発して造られた多摩ニュータウン。その入居は1971(昭和46)年からとすでに50年の歴史を誇ります。そんな多摩ニュータウンにまつわるうわさについて、住宅評論家の櫻井幸雄さんが解説します。

誤ったイメージが付いた「多摩ニュー」

 コロナ禍で人気を高める場所のひとつが、近郊外で自然が身近なエリアです。東京都下の多摩ニュータウンは、その条件を満たす住宅ゾーンとなります。

 一方、多摩ニュータウンに好ましくないイメージを持つ人もいます。多摩ニュータウンが「高齢者が多くて街に活気がなく、まるでゴーストタウンのよう」と言われたのは21世紀に入ったあたり。2000(平成12)年に「多摩そごう」が閉店し、寂れた街と思われたところから生じた評価でした。

 以後20年が経過し、現在の街にゴーストタウンの様子はまったくありませんが、相変わらず「人が少なく、歩いているのはおじいさんとおばあさんばかり」と思っている人が少なくありません。住人からすると笑ってしまうような勘違いなのですが、一度生じた思い込みはなかなか改まらないようです。

 確かに多摩ニュータウンは一時期、商店や飲食店が経営しづらく、店舗が次々に閉店する時代があったこと、シニアの姿が目立った時期があったことは事実です。その原因は、同じような年齢で、同じような家族構成の人を短期間に集めてしまったことでした。

 それでは、なぜゴーストタウンとシニアの街という評価が生まれてしまったのか、そして改善されたのはなぜか、を解き明かしましょう。

 多摩ニュータウンは、日本住宅公団(現・UR都市機構)が昭和40年代から開発を始めた街です。その特徴は駅前に広いロータリーを設け、幅広の車道と街路樹付きの歩道を確保すること。歩行者専用の道路もあり、現在でも「先進的」と呼べる安全な街づくりが行われました。

家族向け物件の大量分譲が招いた結果

 ただし、失敗した点もありました。

 それは、4人家族向けの3DK~4LDKのマンションを一時期に大量に分譲し、賃貸募集も行ってしまったことです。その結果、いきなり小学生が増え、小学校が教室不足になりました。次いで中学校でも教室不足が生じ、新たな校舎ができるまでプレハブ校舎での授業が行われました。

 小児科のクリニックにも患者が殺到。診察までの待ち時間が長くなったのも、開発初期の出来事でした。その子どもたちが徐々に大きくなると、小中学校の校舎不足が解消され、さらに増設した教室が余る事態が生じました。

 一方で子どもたちの親は徐々に高齢化し、リタイア生活を始めるようになると、今度はシニアが急増。高齢者のための各種施設が不足し、小児科に代わって内科や整形外科がシニアで混むようになってしまいました。

多摩ニュータウン(画像:東京都都市整備局)



 またサラリーマン世帯が多かったため、平日の昼間は街を歩く人影がまばら。お店で買い物する人や飲食する人が極めて少ないという状況も生まれました。休日は買い物や外食を楽しもうとするファミリーが大挙して押し寄せるので、店に入れず、買い物や飲食をあきらめる人も出現。そうなると、お店の経営は成り立ちません。

 そのため、駅前のデパートも個人経営の飲食店も営業を終了。活気のない街であり、シニアの姿が目立つ街となって、ゴーストタウンとかオールドタウンなどという呼び名が生まれてしまったのです。

「同じような年代、家族構成の人を短期間にたくさん集めてしまうと、問題が大きい」ことと、「平日の昼間も活動する人がいないと、お店が立ちゆかない」ことは、多摩ニュータウンによって得られた街づくりの教訓となりました。

 UR都市機構はその教訓を生かし、その後に開発した港北ニュータウン(横浜市)や千葉ニュータウン(千葉県白井市・印西市・船橋市)では、長い期間をかけて徐々に分譲を行う方式を採用。そして、2世帯同居も可能な一戸建てやマンションのコンパクト住戸、企業の単身寮などが混在する住宅開発を行うようになりました。

 また住宅だけではなく、大学や研究所、騒音や臭いを出さない作業所なども誘致し、平日の昼間も活動する人がいる街をつくるようになりました。

 結局、住宅だけの画一的な街ではなく、住宅以外の施設もあり、多種多様な人が活動する街が好ましいと分かり、本来、街が自然発生するときと同じような街づくりが目指されたわけです。

変貌を遂げた多摩ニューの現在

 では、画一的な街づくりを行ってしまった多摩ニュータウンは、結局どうなったのでしょうか。

 画一的な街から脱却させるため、1990(平成2)年にテーマパークのサンリオピューロランド(多摩市落合)を誘致し、2000年にラ・フェット多摩南大沢(現・三井アウトレットパーク多摩南大沢、八王子市南大沢)が開業。2005年には首都大学東京(現・東京都立大学、同)が開学して、平日の昼間も多くの人が活動する街へと変身していったのです。

 つまり、ゴーストタウンと呼ばれ始めた21世紀初めの頃、多摩ニュータウンは活気ある街への変貌を遂げだしていたのです。

多摩ニュータウン(画像:写真AC)



 今までのわるい点を反省して新たな道を歩み出した街に対し、ずいぶんひどい言われ方をしたものだと筆者は思います。

 それでも当時、ゴーストタウンというインパクトのある見出しを多くのマスコミが好んだのも事実。その結果、いまだに「多摩ニュータウンはゴーストタウン」と思い込む人がなくなりません。繰り返しますが、現在の多摩ニュータウンは寂れていませんし、シニアの姿ばかりが目立つ街でもありません。

 そして古くなったマンションの建て替えで、新たな分譲も行われており、100平方メートルを超える大型マンションの中古が2000万円以下で売り出されています。近郊外で自然が身近な広い家に住みたいと考えている人には、お勧めの住宅ゾーンなのです。

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