太鼓状の道路下にあった地下街
日本有数の繁華街である銀座は、インバウンド(訪日外国人)の街として近年変化を遂げてきました。そんな銀座の街のなかでも、風景がもっとも変わったのは、銀座4丁目の交差点から晴海通りを築地方面へ少し歩いた三原橋の辺りでしょう。
かつては道路が太鼓状に膨らみ、その下には地下街があり、晴海通りの間を通り抜けることもできました。
しかしその地下街がなくなり道路も平らになったことで、地下街は私たちの記憶のなかだけの存在になっています。すぐそばに銀座の一等地があるにもかかわらず、この地下街は少しうらぶれた雰囲気のある独特なスポットでした。
地下街の完成は約70年前
三原橋地下街が生まれたのは、1952(昭和27)年です。それまで三十間堀川(さんじっけんほりかわ)という川が流れており、三原橋という橋が架かっていました。
戦後、銀座にはがれきが長らく放置されており、連合国軍総司令部(GHQ)からその処理を急ぐように命令された東京は、すぐそばの三十間堀川に捨てることに決定しました。
こうして1948年から始まったがれきの投棄で、三十間堀川は消滅。現在、銀座1丁目の水谷橋公園の区画や、地下鉄銀座駅10番出口の隣にある銀座ファーストビルの細長い区画が川の名残となっています。
一等地だったこともあり、埋め立ての最中から、入札はいつか、いくらくらいで売られるのかなどと話題になっていました。しかし厳しい経済状況で高額な土地は容易に買い手が付かず、入札を始めても3分の1は売れ残り、また売れた土地も放置された状態となっていました。
とはいえ戦後の混乱期だったこともあり、次第に建物を作って商売を始める人たちが集まります。その結果、日本最初のサウナである東京温泉ができるなど、徐々に開発が進んでいきます。そうしたなか、1952年に都有地を使ってできたのが三原橋地下街でした。
地下街形成の経緯
南北にビルを建てて地下を通路でつないだモダンな地下街はもともと、観光事業を目的として使われるはずでした。
同事業は東京都観光協会が都から土地を借りて、ある不動産企業に運営させる流れとなっていました。しかしこの企業は使用目的を無視し、パチンコ屋や飲み屋などへ施設のまた貸しを始めます。
このことは都議会で問題となり、また地下街ではなくロータリーを要望していた中央区も憤慨。事態が紛糾していた1953年頃には、新聞各紙が問題を連日報じ、ついには国会で参考人招致が行われるまでに。しかしその後追求は続かず、問題は棚上げされたままうやむやになりました。
こうして既成事実と化した地下街は1963(昭和38)年、地下鉄日比谷線の工事の際に一時閉鎖されたものの、そのまま存続します。
日比谷線の工事にあたっては地下に新たな階を建設し、そこに地下街を移転する提案もされましたが、店舗が応じず断念することに。
こうして存続してきた三原橋地下街ですが、東日本大震災以降、老朽化と耐震性が問題となり、ようやく立ち退きが本格化。2014年4月をもって閉鎖となりました。
銀座の一等地で戦後の名残が21世紀まで続いていたのは、ある意味奇跡的な現象でした。
「地下に街が広がっている」というロマン
さて、地価が高騰するなかで店舗の面積を増やして人を誘導できることから、東京では高度成長期になると地下街の建設が盛んになります。
しかし、1980年代になると減少、駅の付属施設として建設されるものを除けば1997(平成9)年に大阪市にできた「クリスタ長堀」が最後となっています。
この背景には、メンテナンスや安全対策のコストが地上施設よりもかかることがありました。また、空間をより効率よく利用できる高層建築が盛んになったこともそのひとつです。
それでも、「地下に街が広がっている」というロマンに胸をときめかせる人が多いのか、1980年代の銀座では今後の土地不足に備えて4階構造の巨大地下街を建設するというアイデアも示されたこともありました。
東京の猛暑の背景には、高層ビルの増加が一因という説があります。地下街が増えれば多少は改善するのでしょうか。いずれにせよ、地下街の持つ魅力はいまだ色あせていません。