サッポロビール本社は東京・恵比寿なのに、なぜ社名は「札幌」なのか

「丸くなるな、星になれ」――。日本初の国産ビール「サッポロビール」は当初、現在の札幌市ではなく東京・青山で創業するはずだったという逸話をご存じでしょうか。ノンフィクション作家の合田一道さんが明治期の歴史旅へとご案内します。


初の国産ビールを巡る物語

 間もなくビールの季節の到来――。

 わが国に国産ビールが登場したのは1877(明治10)年。場所は北海道・札幌で、その名も「冷製札幌麦酒(ばくしゅ。ビールのこと)」と呼ばれました。発売したのは、現在のサッポロビール(渋谷区恵比寿)です。

渋谷区恵比寿にあるサッポロビール本社の外観(画像:サッポロビール)



 醸造所は東京に建設されるはずだったのに、札幌に持っていったのが村橋久成(むらはし ひさなり)。薩摩出身のサムライでした。

 どうしてこうなったのでしょうか。

札幌行きを決めたサムライ

 村橋が家督を継いだのはわずか6歳のとき。父が船で琉球(りゅうきゅう)へ赴任の途中、難破し行方不明になったのです。

 村橋家は島津家一門四家のひとつ、加治木家 島津兵庫の親せき筋に当たる、格式の高い家柄でした。

 1865(慶応元)年、23歳の村橋に藩主からイギリスへの留学が命じられます。留学生15人は国禁を破って渡航し、ロンドン大学で陸軍学術を学びます。

 ここで村橋は優れた近代農業の実態を目の当たりにします。これが後のビール醸造につながっていきます。

東京でのビール醸造に猛反対

 1868(慶応4、明治元)年、戊辰(ぼしん)戦争が起こると、村橋は薩摩藩の加治木大砲隊長として軍勢を率いて出陣し、奥羽を転戦しました。

 旧幕府脱走軍の榎本武揚(えのもと たけあき)らが蝦夷(えぞ)地を平定すると、翌1869(明治2)年、黒田清隆率いる新政府征討軍の軍監として箱館(はこだて)戦争を戦い抜きました。

 榎本と黒田の降伏会見には、村橋も立ち会っています。

 箱館戦争が終わり、明治新政府は直ちに北海道開拓に着手します。開拓使が設けられ、東京の青山に45haに及ぶ広大な官園(かんえん)が設けられました。

 官園は三つに分かれ、第1、第2は果樹、野菜類、第3は牧畜と牧草を育てて、どの外来種が北海道で生育できるかを調べる試験場でした。

まもなくビールの季節到来。人気の一角を占めるサッポロは、実は東京で創業するはずだった?(2020年6月17日、遠藤綾乃撮影)



 このように東京官園に集中させたのは、開拓使の次官に就いた黒田とお雇い外国人顧問のホーレス・ケプロンが開拓使の事業をPRしようという政治的な意向によるものでした。

 開拓使に入った村橋は、東京出張所勧業課長になりますが、1875(明治8)年夏、ビールとぶどう酒の醸造所が官園内に建設されることに決まったのを知り、真っ向から反対します。

「勧業が目的でビールを作るのなら、醸造所は最初から麦やホップを栽培できる北海道に建設すべきだ」と強調しました。

狙う市場はやはり「東京」

 北海道で採れるホップを用いて、日本人がいまだ味わったことのないビールを作りたい――。

 ビールこそ西洋流の近代産業の産物と考えた村橋は、すかさず開拓使内の課長たちにこの話をして協力を得、東京に決定している醸造所建設地を札幌に変更すべきとする文書を黒田に提出したのです。

 黒田は了承しました。

 喜んだ村橋はドイツから帰国したばかりのビール醸造人・中川清兵衛を東京官園に呼び、「醸造所の責任者として雇いたい。製品が成功するまでは辞めさせない」と伝えます。

 中川もまた北海道におけるビール作りに夢を抱いていたのです。こうして二人三脚による工場建設が始まり、ビール製造へ全力を傾注していったのです。

「開拓使麦酒醸造所」の開業式の写真が残っています。

 ビールだるにひと文字ひと文字書かれた「麦酒とホップを製すればビイルといふ酒になる」がほほ笑ましく見えます。

北海道大学付属図書館所蔵、「開拓使麦酒醸造所」開業式の写真(画像:合田一道)



 18klの「冷製札幌麦酒」は初めて世に出ましたが、瓶も栓もないので、外国人が使ったビールやワインの瓶、栓を再利用しました。

 1瓶16銭。いまの価格にすると2000円ほどの嗜好(しこう)品です。

 この時、札幌の人口は約3000人。市場はやはり東京です。東京の人に飲んでもらわなければ意味がないのです。

 出来たての札幌ビールが東京に送られてきたのは、1877(明治10)年6月。西南戦争の真っただ中でした。

東京上陸、認められた功績

 ところが長い船旅のため、ビールの栓が外れて中身が噴き出し、船内は泡だらけ。内務卿(ないむきょう)・大久保利通に送られたビール12本の瓶は、すべて空でした。

 黒田はぶぜんとなりましたが、最も頭をかいたのは村橋だったでしょう。

「冷製札幌麦酒」は少しずつ人気を集め、1881(明治14)年に東京・上野で開催された第2回内国勧業博覧会で、有功賞を獲得します。村橋は中川の肩をたたいて喜び合いました。

信条を貫いたサムライの味

 でも村橋は突然、開拓使を辞めます。折しも北海道開拓10年計画が終わりに近づいていました。

 退職した村橋が再び姿を現したのは1892(明治25)年9月、兵庫県神戸市葺合(ふきあい)村の道端で倒れているのを発見されたのです。だが収容先で亡くなります。53歳でした。

 かつて開拓使で働いていた人たちが中心になって、東京・青山で改めて葬儀が催されました。このときの香典帳が残っています。

 先年、筆者(合田一道。ノンフィクション作家)は鹿児島へ出掛けたのですが、「薩摩人が作ったビール」と記されたビールが売っていて、目を見張ったものでした。北海道に旅したときは、ぜひサッポロビールを飲んでみてください。

 おのれの信条を貫き通したサムライの味が、ほのかに漂ってくるはずです。


【画像】日本初の本格的なビール工場をつくった「村橋久成」の姿を見る

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