「小笠原方言」とは何か
日本語と一口に言っても、その方言はさまざまです。21世紀の現在、まったく理解できない方言はまず存在しませんが、それでも見知らぬ土地に行くと、頭の中が思わず「?」になりそうな方言が残っています。
東京の方言でまず思い浮かぶのは、「てやんでえ」で知られる江戸弁や、「~ざます」のような山の手言葉でしょうか。しかし広い東京には、もっと興味深い方言があります。それが「小笠原方言」です。
小笠原方言は小笠原諸島に属する父島や母島で使われている、欧米系の島民が話していた言語と日本語が混ざって生まれた方言です。
簡潔に表現すれば「日本語と英語のごった煮」なのですが、その形成過程はかなり複雑です。
190年前、父島に上陸した30人
1830(文政13)年、白人5人と太平洋諸島の出身者25人がハワイから父島に移住しました。
白人5人の出身はバラバラで、元々の母国語はイギリス英語、アメリカ英語、デンマーク語、イタリア語。太平洋諸島の出身者が話していた言語は知られていません。この30人は、英語と主にハワイ語が混合した言語を使っていたようです。
言葉は、コミュニケーションを取るために欠かせない道具です。そのため、言葉の異なる人間同士が出会った場合は、お互いの探り合いの中から言葉が生まれてきます。
かつて話されていた56の単語
そんな時期の小笠原諸島の言葉を記録した資料があります。
1840(天保11)年、陸奥気仙郡小友浦(現・岩手県陸前高田市)の船乗り6人が乗っていた「中吉丸」が鹿島沖で台風に遭い、破船して漂流。父島に流れつきました。6人は島に63日間滞在した後、船を修理して日本に自力で戻りました。
これを記録した『小友船漂流記』には父島で話されていた56の単語が記録されています。その内訳は
・英語由来の単語:17語
・ハワイ語由来の単語:39語
です。
このことからも、島では「英語のようなハワイ語」「ハワイ語のような英語」が話されていたことがわかります。
万葉集に通じる「八丈方言」
30人の入植後も新たな欧米系移民は増え、また1876年(明治9)年に日本の領有が確定すると日本からの移民も増えていきました。彼らは八丈島出身者が多かったこともあり、父島の言語は「八丈方言」の影響も受け始めます。
ちなみに八丈方言は八丈島や青ヶ島で使用されている方言で、日本最古の和歌集「万葉集」の東歌(あずまうた)、防人歌(さきもりのうた)に見られる上代東国方言の文法を残していると言われています。
このようにさまざまな言葉が入り交じって、島には独特の方言が成長していったのです。
日本の領土となってから日本語教育が進んだものの、言語に影響を与える出来事が再び起こります。それは太平洋戦争です。
戦後、小笠原諸島の返還(1968年)まで島に戻ることを許されたのは欧米系島民だけでした。そして戦前とは一変、英語で学校教育を受けることになります。
一人称は英語由来の「ミー」
こうした複雑な経緯を経て生まれた小笠原方言ですが、一聴するとタレントのルー大柴さんがしゃべる「ルー語」にそっくりです。
なにしろ、代表的な小笠原方言の一人称は英語由来の「ミー」なのです。
「ミーはイングリッシュとジャパニーズをミックスしているだけだじゃ」
「ユーは何のティーチャーかい?」
「ミーがハイスクールの時にね」
さらに「さようなら」を表す言葉が英語の「See you again」に由来する「また見るよ」だったりと、興味深くて目が(耳が?)離せません。
小笠原諸島の方言は唯一無二
もっとも現在、こうした表現が小笠原諸島で日常的に使われているかと言えば、そんなことはありません。東京でも既に「てやんでえ」「~ざます」を使う人がいないように、この独特の方言を使う世代は高齢化しています。
現在は日本語教育やメディアが普及したこともあり、小笠原諸島の言葉は首都圏で一般的に使われている言葉とほとんど変わらなくなっています。とりわけ、言葉のアクセントは東京の影響が濃くなっています。
それでも外国語由来の表現は一部に残っています。
例えば、魚の「シマアジ」は「ヌクモメ」と呼ばれていますが、これはハワイ語由来とされています。また、「痛い」は英語由来の「ガッダム(goddamn)」が使われることがあります。
これに加えて八丈方言由来の言葉も多いため、小笠原諸島の方言は国際的かつ、歴史の長い言葉が混じった方言と言えます。
興味深いことに、八丈方言は八丈島だけで使われているわけではありません。沖縄県大東諸島の北大東島、南大東島では、八丈島と同じような方言が使われています。これは大東諸島が当初、八丈島からの移民によって開発されたことに由来しています。
言葉は「生もの」ですから、使われなくなれば次第に消えていきます。小笠原諸島の独特の方言も、いずれ「かつて存在した珍しい言葉」となるかもしれないのです。