女子高生すらトリコにする「城跡と寺」が世田谷にあった
招き猫で有名な世田谷区の豪徳寺。同寺の周辺エリアを、法政大学大学院政策創造研究科教授の増淵敏之さんが歩きました。東京では影の薄い城跡 少し先ですが、栃木県宇都宮市で「関東武士(関東生まれの武士)」の講演会に登壇することになりました。 武士の誕生は諸説あり、その中には10~11世紀頃に関東に下野した下級貴族が荘園などの土地を守るために武装したことが起源になったという説があります。 東京は数多くの古い城跡があります。ただ江戸城跡があまりに巨大で、かつ皇居として残っているため、他の城跡はそれほど当時の面影がなく、影の薄い存在になっています。都心部から近く、当時の形が若干残っているといえば、世田谷城跡ぐらいでしょうか。 近年「日本百名城」「続日本百名城」のスタンプラリーが人気で、老若男女問わず城跡巡りを趣味にする人たちが増えているようです。 そんななか、最近、山田果苗の漫画『東京城址女子』(KADOKAWA)が静かな話題となっています。女子高生が城跡巡りをする作品で、相当マニアックな作風ですが、少し前に「歴女」がブームになったこともあり、『東京城址女子』はそういったバリエーションのひとつだと捉えられます。 世田谷城を取り上げた『東京城址女子』第一巻(画像:KADOKAWA) さて前出の世田谷城跡は東京都指定旧跡で、その一部が世田谷城址公園(世田谷区豪徳寺)になっています。もちろん『東京城址女子』でも紹介されています。 今も残る空堀と土塁 世田谷城は、中世に活躍した武蔵吉良氏が住んでいた城です。吉良氏は戦国時代に北条氏へ付いたため、1590(天正18)年の小田原征伐で世田谷城は廃城の憂き目にあいました。 世田谷城址公園の様子(画像:(C)Google) 世田谷城は経堂の台地から南に延びた突端(とったん)にあり、現在も空堀や土塁が残っています。なお、麓を流れる烏山川は堀の役目を果たしていたそうです。 創建は彦根藩主・井伊直孝 また、井伊直弼の墓のある豪徳寺(同)までがその範囲でした。豪徳寺の始まりは、吉良氏が1480(文明12)年に弘徳院という庵(いおり)を結んだことと言われています。その後、江戸時代の1633(寛永10)年に彦根藩主の井伊直孝が井伊家の菩提(ぼだい)寺として伽藍(がらん。寺院の建物)を創建、整備したようです。 豪徳寺の山門(画像:増淵敏之) 徳川幕府の誕生以前は、どちらかというと、さまざまな事象は京都を中心に回っていました。鎌倉幕府は存在していたものの、天皇は京都にいたため関東は辺境の地であったのかもしれません。 関東出身の足利尊氏も幕府は京都に開き、関東には鎌倉公方(鎌倉府の長官)を置きました。関東では武士たちの争乱が続いており、それが京都に広がり、応仁の乱につながったという見方もあります。世田谷城跡もその時代の名残なのでしょう。 新海誠『秒速5センチメートル』の舞台にも新海誠『秒速5センチメートル』の舞台にも 小田急線の豪徳寺駅から豪徳寺までは徒歩で約10分の距離。駅からは商店街が続き、振り返ると、新海誠『秒速5センチメートル』に登場する、左側にコンビニが見える駅南口が見えます。 豪徳寺駅の駅南口の様子(画像:(C)Google) ゆっくり歩いてみると、味わい深い商店街です。なだらかな坂の途中に焼き芋屋があり、古書店も。Y字路の低い礎石に座って男女がコーヒーを飲んでいました。老舗っぽいそば屋もあります。都心部とは異なり、ゆったりとした時間が流れています。 商店街の突き当たりから住宅街に入り左折してしばらく歩くと、左側に豪徳寺の参道入り口が見えてきます。そこからはすぐに山門です。 商店街にも招き猫のキャラクターが 豪徳寺といえば招き猫です。歴史は、豪徳寺が前身の弘徳庵(あん)だった頃にさかのぼります。 彦根藩2代目藩主・井伊直孝がタカ狩りの帰りに、弘徳庵の前で片手を挙げて手招きをする猫に遭遇。直孝は猫に導かれるように寺に入り。休憩しました。すると天気が一転。雲が一面を覆い、程なく雨が降り出し、雷鳴も鳴り出しました。 直孝は猫のおかげで雷雨をしのげたことを喜び、また住職の説法にも感銘を受けたことから、弘徳庵を井伊家の菩提寺にすることを決め、所有していた多くの田畑を寄進しました。 豪徳寺に置かれた招き猫(画像:増淵敏之) 直孝の没後、彼の法号「久昌院殿豪徳天英居士」から名前を取って、豪徳寺となりました。そして、住職がかわいがっていた「たま」という猫の姿を形作り、「招福猫児(まねぎねこ)」とあがめ始めたといいます。 駅や商店街でも、招き猫のキャラクターを見かけました。商店街の別称も「商店街たまにゃん通り」とのことです。 豪徳寺には井伊直弼も眠る豪徳寺には井伊直弼も眠る 豪徳寺には直孝だけでなく井伊家の藩主が何人も墓地を残しています。井伊直弼もそのひとりです。 直弼と言えば「桜田門外の変」の主役としてよく知られていますが、「安政の大獄」を始めとするダーティーなイメージも残っています。 大きくうねっていく時代に直面し、国のかじ取りとしての苦悩も大きかったことでしょう。歴史上の人物というものは、どうしても後世の作家や研究者によって人物像が提示されてしまうため、実際はどのような人物だったのか、興味が尽きません。 豪徳寺にそびえ立つ三重塔(画像:写真AC) 豪徳寺には、2006(平成18)年に完成した三重塔がそびえ立っています。わずか14年前の建造物ですが、境内の雰囲気と見事にマッチングしています。 1980年代に人気だった漫画も思い出した 豪徳寺の参道入り口から左手にしばらく進むと、世田谷城址公園です。豪徳寺かいわいには外国人の姿も多く見られます。行き違ったふたり連れも外国人でした。またこのかいわいも今後変わっていくのでしょうか。 豪徳寺と世田谷城址公園の位置関係(画像:(C)Google) 世田谷城址公園に向かう道すがら、筆者(増淵敏之。法政大学大学院教授)の足元を枯れ葉が音を立てて幾つも転がっていきました。まるで歴史のなかの人々が声をかけてくれたような気がしました。周囲は落ち着いた雰囲気の住宅街ですが、襟を正して歩かずにはいられませんでした。 そういえば、1980年代に庄司陽子の少女マンガ『Let’s豪徳寺!』が話題になったのをふと思い出しました。女性ばかり4世代が同居する高級住宅街の大屋敷で起こるさまざま出来事を描いたラブコメディーでその後、映画化されました。 豪徳寺周辺にも、さまざまな文化があるようです。
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